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映画『 All the Streets Are Silent 』公開記念!日本で唯一の Supreme ライダーだった土屋敬志と振り返る《あんとき》のNYスケートムーブメント

《 あんときのストリート 》を発掘|MIMIC ( ミミック )

世界的に再燃する’90年代ストリートブームに後押しされる形で、ドキュメンタリー映画『 All the Streets Are Silent 』が10月21日に公開されました。内容は、Zoo York ( ズーヨーク ) や Supreme ( シュプリーム ) などのニューヨークブランドに所属するライダーたちが築き上げたスケートスタイルと、Wu-Tang Clan ( ウータンクラン ) や Busta Rhymes ( バスタ・ライムス ) といったニューヨークのラッパーたちから発信されたヒップホップカルチャーが融合した、’90年代のニューヨークストリートカルチャーの黄金期を振り返るというもの。

早々に映画を観た人たちからは「 スケート×ヒップホップの金字塔として名高い Zoo York の『 MIXTAPE 』をボリュームアップさせた面白い映画だった! 」という絶賛の声も届いています。

ニューヨークスケートのアイコン、ハロルド・ハンターが登場する映画のイメージ画像は 公式サイトより。映画の詳しい内容も公式サイトからチェックできます

そこで今回の MIMIC では『 All the Streets Are Silent 』で描かれているニューヨークスケートシーンの勃興をリアルタイムで体感し、日本で唯一の Supreme ライダーとして日本のストリートスケートの黎明期から活躍していた土屋敬志さんをゲストに迎え、《あんとき》のニューヨークシーンの魅力や日本シーンに与えた影響などについて振り返っていきます。当時の日本のヘッズたちは《あんとき》のニューヨークシーンをどう捉え、何を感じ取っていていたのか? 映画を観た人にもさらに楽しんでいただける、そんなもうひとつのアナザーストーリーが開幕です!

写真はハロルド・ハンター ( 右 )と写る土屋さん ( 左 ) と元 homless ( ホームレス ) のデザイナー ( 中 )

以前「 ラストオージー2のTシャツを着てFESNのビデオに登場していた 」というエピソードを紹介した homless の記事 をチェックしてくれていた土屋さんは、取材当日なんと当時のオリジナルTシャツを着用してきてくれました!古くから土屋さんを知るスケーターなら思い出深いTシャツですが、どうして文脈の異なるスケートシーンで着用していたのか?その真相もこのインタビューで明らかになります!

土屋敬志(つちや・けいし)
’95年に FESN からリリースされた1stタイトル『 Far East Skate Network 』で、ルーキーとしてテクニカルかつスタイリッシュなフルパートを披露し、シーンに鮮烈なデビューを飾る。以来、Supreme をはじめとする多くの人気ブランドからスポンサードを受けながら、QUEENZ ( クイーンズ ) や METROPIA ( メトロピア ) といった日本を代表するスケートチームで唯一無二の存在感を発揮。日本発のデッキブランド、テラファーマからはシグネチャーモデルもリリースした。現在は本業の美容師の仕事のかたわら、ハンドメイドのコンクリート製プールをリリースするブランド、K.C.V( Kokorozashi Concreate Vibes )を展開。コミック『 少年イン・ザ・フッド 』を手がける SITE 氏の Ghetto Hollywood や人気アパレル X-LARGE ( エクストラ・ラージ ) などともコラボレートを果たす。

早すぎた天才、石沢彰から教わったストリートスケートの作法と、日本で一番イーストコーストだった大阪のエピソード

MIMIC

近年、’90年代に黄金期を迎えたストリートカルチャーへの再評価がすごく高まっていまして、映画『 All the Streets Are Silent 』もそうした流れのなかで公開されることとなりました。テーマとなっているのが、土屋さんたちも夢中になった’90年代中頃のニューヨークスケートシーンの勃興ということもあって、本日は当時のニューヨークシーンの魅力や日本のシーンに与えた影響などについて話をお聞きできればと思っています。

さっそくですが、土屋さんがニューヨークや東海岸のスケートシーンに興味を持ったきっかけを教えてもらえますか?

土屋

僕らが中高生の頃に海外の情報をいち早く日本へ届けてくれていたのは、『 411VM 』というビデオマガジンや『 TRANSWORLD SKATEboarding 』や『 Thrasher 』などの雑誌でした。’90年代中頃になると、それらのメディアでニューヨークやフィラデルフィア、ワシントンDCなどの特集が組まれるようになったり、Zoo York の広告を見かけるようになって、次第にその魅力が刷り込まれていった感じですね。

あと、日本では ZIZOW くん( 北村 “ZIZOW” 浩一 / 鵠沼シーンの支柱として、中島壮一朗氏らととも湘南スケートをネクストレベルに押し上げた立役者 ) が早くから Zoo York のライダーを務めていたので、その影響もあったかもしれません

MIMIC

えっ!? ZIZOW さんって Zoo York のライダーだった頃があるんですか?

土屋

ガムガムが代理店を始める前だったと思います。何の雑誌の広告だったか覚えてないんですが、イーライの描いた Zoo York のタグが全面にプリントされたデッキに乗っていたのが印象的でしたしたね。

当時のスケートシーンはLAを中心とする西海岸スタイルが主流だったので、ニューヨークにスケートシーンがあることも Zoo York をきっかけに知ることになりました。また、アメリカに西海岸、東海岸という括りがあって、それぞれに違うカルチャーやライフスタイルを持っていることもこの頃から知るようになった感じです


’94年にリリースされた『 411VM 』のIssue 6 では、インダストリーのコーナーで Zoo York がフューチャーされる。当時のBボーイたちから支持の高かった FILA のパーカーを着用してスタートするオープニングにニューヨークらしいクロスオーバー感が滲み出る

MIMIC

雑誌だと、特に印象に残っている特集はありますか?

土屋

手元に残っているものだと、この 『 TRANSWORLD SKATEboarding 』 のニューヨーク特集はよく読んだ記憶がありますね。

皆さんにもお馴染みのスケーターたちが数多く出演しているんですが、こういうのを読んで、「 あ、このライダーはニューヨークのスケーターなんだ 」とか、「 東海岸とつながりのあるライダーなんだ 」ってことを勉強していました(笑)。それが楽しかったし、自分の世界を広げるきっかけにもなりましたね

’95年2月号の『 TRANSWORLD SKATEboarding 』より。ライアン・ヒッキーやハロルド・ハンターも登場 ( 土屋さん私物 )

動画接客ツール ザッピング で投稿

MIMIC

こうやって雑誌などのメディアでニューヨークの特集や東海岸の特集が組まれているのを見ると、本国でも盛り上がっているんだなというのを実感できますし、ニューヨーク熱も高まってきますよね。ちなみに、当時のこうしたムーブメントを受けて、特に好きだったスケーターや影響を受けたスケーターっていらっしゃいますか?

土屋

私事で恐縮なんですけど、やっぱり地元の先輩だった石沢彰くん ( イーサンの愛称で親しまれたレジェンドスケーター。横浜をホームタウンに活躍。ニューヨークの人気ブランド、5BORO ( ファイブボロ ) からはシグネチャーデッキもリリースした ) が自分のルーツにあるんですよね。

日本のシーンも次第にストリートスケートが主流になりはじめ、発展途上だった横浜や東京の街にもたくさんのオフィスビルが建てられるなかで、ニューヨークや東海岸のスケートスタイルを真似ながら夜のビル街で滑る楽しさを教えてくれたのがイーサンだったんです

MIMIC

先日も FESN の森田貴宏さん ( ビデオプロダクション、 FESN の代表で、アパレルブランド、LIBE ( ライブ ) の主宰者。ストリートスケートの実践やヒップホップカルチャーとのフュージョンなど、映画のトピックとなったテーマを日本でいち早く体現したスケーター ) が、土屋さんと石沢さんと田中竜一さん ( 梶谷雅文氏や荒木塁氏、EXPRESSION ( エクスプレッション ) のメンバーたちとともに関西シーンを盛り上げたキーパーソン。現在はウィールカンパニー、Strush ( ストラッシュ ) のディレクターを務める。西のスケビ博士としても有名 ) とセッションした当時のレッジを振り返り、石沢さんとの思い出を語っていましたが、やっぱり、コアなスケーターの方たちからの評価の高いスケーターだったんですよね?


石沢彰さんとのセッションを振り返る FESN の YouTube「 THE SESSION with AKIRA ISHIZAWA – 1996 」より

土屋

すべてが早すぎた人なんですよね。時代の先を行きすぎちゃってたんで、コンテストとかに出てもジャッジが追いついていけてないレベル。本当に誰もやったこともないようなトリックをいきなりやるのが好きな人だったから「 今の何? 」みたいな感じでジャッジも点数を付けれなかったんです

MIMIC 編集部から「 ニューヨークのスケートスタイルがシーンに与えた影響について教えてください 」というお題を事前にいただいていましたけど、その答えはスキル至上主義だった西海岸主流のスケートスタイルから僕らを解放してくれたことにあったと思うんです。ジャッジに点数をつけてもらうようなスケートではなく、「 街中の制約されたスポットのなかでいかに自分を表現するか 」というスケートにシフトチェンジするきっかけを提供してくれたといいますか

MIMIC

その点、石沢さんはトリックの難易度どうこうではなく、スポットや街を上手く使ったニューヨークや東海岸のスケートスタイルをいち早く実践していたわけですね

土屋

そうですね。警備員が来るまでの間に自分が狙ったところを確実にシュートしていくスケートスタイルや、警備員が来たら次のスポットへ転々と流れていく滑り方なんかもイーサンに教わりましたね

MIMIC

ということは、横浜では石沢さんを中心に、土屋さんや田口悟さん ( 横浜シーンを代表するスケーターで土屋さんの先輩。現在はアパレルブランド、CHALLENGER ( チャレンジャー ) のデザイナーを務めている ) といった後輩スケーターが続く形で、ニューヨーク的なストリートスケートのシーンが形成されていったというわけなんですね。ちなみに東京や横須賀にもそういったシーンはあったんですか?

土屋

全国各地で同時多発的に、僕らのイーサンに当たるような先輩が後輩を連れて、ストリートでスケートを楽しむシーンができていったと思います

MIMIC

まさにムーブメントですね。特に誰が言い始めたわけではないけど、同時代的にみんなが同じものに興味をもって、同じ方向に向かっていくという

土屋

そんななかでも、特にその意識が高かったのは関西シーンだったと思いますね。ニューヨークのスケートスタイルはもちろん、Zoo York や Supreme といったニューヨークブランドへの理解も非常に深くて、そのカッコ良さを自分たちのなかに取り込むことに一番成功していたのが大阪や神戸のスケーターだったんじゃないかな

MIMIC

確かに土屋さんもサポートされていた EXPRESSION の方たちも、ヴェニスさん ( EXPRESSIONの一員 として’90年代から関西のスケートシーンを牽引。ライフスタイルブランド DORCUS TOP BREEDING SYSTEM ( ドーカス トップブリーディングシステム ) のディレクターも務める ) を筆頭に Zoo York からサポートされていましたね。おっしゃるとおり、ニューヨークのスケートスタイルに特化していた印象があります

土屋

EXPRESSIONの総裁、岡本一太郎くん ( EXPRESSIONのアパレルやデッキのデザインはもちろん、フッテージの制作までマルチに手がける凄腕のクリエイターでもあり ) が日本の Zoo York の広告を制作していたので、その背中を大阪スケーターたちが追ってたという側面もあったかもしれませんね


’97年にリリースされた EXPRESSION の1stビデオ『 FIRST SEQUENCE 』より

MIMIC

それと以前、荒木塁さん ( 神戸シーンを代表するスケーターで、フランスのスケートブランド、Magenta Skateboards ( マゼンタ・スケートボード ) からはゲストボードもリリース。現在はアパレルブランド ”L.I.F.E” のディレクターやフォトグラファーとしても活躍 ) に取材をさせてもらった際に、関西は阪神・淡路大震災以降に新しいビル群ができたことで、ストリートスケートに恵まれた環境が生まれ、それが神戸や大阪のストリートシーンを育んでいったというお話を聞いたんですが、やっぱりそうした土地柄も影響していそうですよね

土屋
まさにそのとおりで、そこだと思うんですよね。新しくビルがどんどん建てられていたあの時代がターニングポイントだった。ビル街が新しく誕生して、「 ここでこのトリックをしたら面白いよね 」という発想力が育まれたことで、ストリートスケートの表現の幅が一気に広がったんです

MIMIC

土屋さんが特に大阪にニューヨークっぽさを見出したエピソードってありますか?

土屋

EXPRESSION の撮影で大阪を訪れたときに大起 ( 細田大起 / 東海岸のスケートスタイルを日本で見事に体現した天才肌。玄人なスケーターたちからの支持は圧倒的だった ) やコンチ ( 近藤広司 / テクニカルかつスタイリッシュなスタイルで、スケートでも夜遊びでも EXPRESSION の秘蔵っ子として活躍 ) たちがチャリンコでバイトに出かけながら eight ( エイト:今はなき、大阪の中心的スケートショップ ) に集まって、その前でスケートしてる姿がものすごくニューヨークっぽいなと衝撃を受けたことがありましたね。

のちに東海岸スタイルを代表するスケーターとして頭角を現す二人だけど、もう高校生ぐらいの頃からゴチャゴチャと遊んでいるだけでニューヨークの空気感が滲み出ちゃってたもん

Zoo York のライダーだったロビー・ガンジェミが始めた Supreme 傘下のデッキブランド、VEHICLE ( ヴィークル ) や、同じく Zoo York のライダーだったジェフ・パンやピーター・ビシが立ち上げたアパレルブランド、UXA からもサポートを受けた細田大起氏。スタイルの重要性をテーマとした『 SLIDER 』のvol.33で表紙を飾ったことからも彼のすごさがうかがい知れる

MIMIC

Supreme の店前でタムロするニューヨークスケーターみたいな?

土屋

まさにそれ!

MIMIC

スケートスタイルだけにとどまらず、日常でもニューヨーク感があふれ出てしまっていたんですね

土屋

街で滑ってクラブ行って、ラッパーやDJとセッションしてというライフスタイルは、まさにニューヨークのスケーターの日常そのもの。大起もコンチもスケートのためにわざわざ鳥取から大阪へ引っ越してきていたんですが、彼らもいち早く大阪という街にニューヨークや東海岸っぽさを見出していたようですよ。それこそ、第何世代ていえばいいんだろう(笑)?

自分たちが若手の子たちから素直に影響を受けはじめ、世代を越えてひとつの目標に向かえるものすごい時代でしたね。これも世界で同時多発的に到来した「後継者発掘」のムーブメントだったのかも

Supreme のスポンサードを決定づけた2人のキーマンとは?

MIMIC

そうしたなかで、土屋さんはニューヨークスケートシーンのキーショップともいえる Supreme のスポンサードを受けることになりますよね。Supreme との出会いは、どのようにして生まれたのですか?

土屋
もともとは、それこそ MIMIC でも紹介されていたロンディスや Em などのお店に足を運んでいたこともあったんですが、スケートボードに夢中になるうちにより高い専門性を求めて、 STORMY ( ストーミー ) に通うようになるんです。初めての Supreme との出会いは STORMY でしたね

MIMIC

今、MIMIC では藤原ヒロシさんが雑誌『 CUTiE 』で連載していた「 HFA( Hiroshi Fujiwara Adjustment )」というコーナーをディグしているんですが、初期のロンディスではスケートブランドも取り扱っていたみたいですね

土屋

そうなんですよ。初めて訪れたときには、スケートショップなんだと勘違いしていましたから

’91年6月号の『 CUTiE 』に掲載された「 HFA 」より。マット・ヘンズリーが手がけた A1 MEATS ( エーワン・ミーツ ) や Blind ( ブラインド )、WORLD INDUSTRIES ( ワールドインダストリーズ ) などのTシャツも問い合わせ先はロンディスになっていた

土屋さんが当時ロンディスで購入したというロンドンのスケートブランド、Insane ( インセイン ) のバッグ。Insane のアイテム欲しさに初めてロンディスを訪れたそう (土屋さん私物)

MIMIC
ちなみに当時の STORMY は、どんなショップだったんですか? のちに TILT ( ティルト ) を立ち上げる飯島さんも働いていたと聞いているんですが

土屋
EZ さんですよね。いらっしゃいましたね。いわゆるスケートボードのプロショップなのですが、ダイコンくん ( 田中大輔/スケート&アーティスト集団、OWN ( オウン ) を主宰し、’90年代から東京のストリートシーンを支えてきた超重要人物。DISKAH 名義でアーティスト活動も行う ) もスタッフとして働いていましたし、当時の本当に尖った人たちが集っているショップという感じでしたね。Supreme を取り扱ったのも一番早かったと思いますし、ヘッズたちが通うアンテナショップでした

MIMIC
初めて Supreme のアイテムを見たときは、どんな印象を持ちましたか?

土屋
当時は WORLD INDUSTRIES をはじめとする、西海岸系ブランドのアパレルをチェックすることが多かったんですが、そうしたアイテムの中にシンプルなボックスロゴのTシャツが並んでいたので、「 えっ、このブランドなんだろう?? 」って感じでものすごく目に焼きつきましたね。特に迷彩のボックスロゴには衝撃を受けました

MIMIC
では、スポンサードを受ける前から自分でも好きで購入していたんですね?

土屋
買っていましたよ。何ロゴっていうのかな?小文字のシンプルなフォントが配されたキャップが初めて購入した Supreme でしたね

MIMIC
どんなところがカッコいいと思いましたか?

土屋

ほかのスケートブランドにはない大人っぽさに痺れていました

土屋さんが衝撃を受けたという Supreme の迷彩ボックスロゴ。いつの時代も色褪せない不朽の名作(土屋さん私物)

MIMIC
そこからどのようなきっかけでスポンサードが決まっていったんですか?

土屋
きっかけはダイコンくんだったんですよ。当時、Supreme の代理店をしていた Dice&Dice ( ダイスアンドダイス ) がダイコンくんに「 日本人のライダーを取りたい 」という話を相談していたみたいで。それでダイコンくんが森田くんに「 誰かいいライダーいない? 」と尋ねたところ、森田くんから「 今すげーいいやついるから 」ってことで紹介してもらったんです

MIMIC
それは土屋さんが鮮烈なデビューを飾った FESN の『 Far East Skate Network 』がリリースされた直後くらいですか?

土屋
そうですね

MIMIC
そうだったんですか〜! もちろん、かねてから Dice&Dice のセレクト眼はものすごく信頼できるものでしたが、とはいえファッションが本職の彼らがリアルスケートシーンから土屋さんを抜擢するセンスは特にすごすぎるだろう〜と唸っていたんですが、背後に森田さんやダイコンさんのリコメンドがあったんですね。これで腑に落ちたというか、すごく納得感がありました。じゃあ、ビデオでのフックアップしかり、Supreme のライダー紹介しかり、当時の森田さんは“土屋さん推し”だったんですね

土屋
ありがたいことに、そうだったのかもしれませんね。当時、森田くんと会うのはコンテストがメインで、こっちは一方的に知ってるし、向こうもなんとなくチェックしてくれていたし、という間柄で。でも、その後話を聞くと、やっぱり「 誰だあいつは 」という目線で見ていてくれたみたいなんですよね

MIMIC
奇しくも森田さんといえば、日本でいち早く東海岸のスケートスタイルを実践されたスケーターの一人ですよね。やっぱり、森田さんとの撮影は、当時からスポットやスタイルにこだわる東海岸的なノリを垣間見れることもあったんですか?

土屋

森田くんはもともと新宿のジャブ池ローカルだったこともあり、新宿界隈にあるオフィス街のスケートスポットを熟知していたし、本人は意識せずともそういうノリが自然と染みついている印象でした。なので、連れていってくれるのは、いわゆる東海岸のスケーターが好きそうなスポットばかりでしたね。

でも、なんて言うのかな〜? 意識してそういう毛色の人と無意識にそれができちゃう人との違いとでも言うのでしょうか。映像としての撮られ方や撮り方に、良い意味で毒のある絶対的な感性を持ってる人なので、きっと本人に聞いても、「 全部を意識してたと言えばしてたと思うし、してなかったと言えばしてなかったかな 」とか言いそうなイメージはありますね(笑)

MIMIC
確かに森田さんってすごくナチュラルボーンな感じがしますもんね

土屋
あくまで自分が思う、森田くんの人物像なんですけどね。天と地の間で霞む雲みたいにやわらかく大きな存在感です

MIMIC
なるほど〜そう感じていたんですね。ちなみにちょっと話は戻っちゃうんですが、Supreme のサポートを受けていた時代には、どんなアイテムをもらっていたんですか?

土屋

今日も当時のアイテムを少し持ってきました。今だと考えられないと思うんですが、プリントミスやステッチミスがあったようなB品が配給されてたんですよ(笑)

こちらが土屋さんがもらっていた Supreme の初期のアイテム。よく見ると英字の刺繍がつながっていたり、版ズレを起こしていたりしている

動画接客ツール ザッピング で投稿

MIMIC
え〜(笑)。今、Supreme が好きな人たちに「 これが初期の Supreme のアイテムだよ 」って言っても、偽物を疑われる可能性がありますね(笑)

土屋
普通では世に出ることのないアイテムなので、逆におもしろいという見方もできるかもしれませんけどね。やっぱり、当時はいちスケートショップが製作していたアパレルだったんで、作りは雑でしたね

MIMIC
スポンサードを受けている土屋さんのミッションは、日本のスケーターの間で Supreme を広めることだったわけですよ?

土屋
そうですね。STORMY でジェームズ・ジェビアさん ( Supreme の創業者 ) と顔合わせしたときも「 これからアパレルにも力を入れていくから、よろしくね 」みたいなことを言われました。でも、広めるのは実際かなり大変でしたね

MIMIC
スポンサードが終了したのは、なんでだったんですか?

土屋

Dice&Dice が条件などの面で本国の Supreme と折り合いがつかず、取り扱いをやめることになって自然消滅した感じです

MIMIC
そのあと、ONEGRAM ( ワングラム:Supreme や SILAS ( サイラス ) を扱っていた代理店 ) で再開されたときには、ガラッとお洒落なイメージに変わっていてビックリされたんじゃないですか?

土屋
いや〜本当に「 メディアの力ってすごいなぁ 」と思ったと同時に、自分の力不足を痛感したタイミングでもありましたね。やっぱり一人しかライダーがいないなかで、どうやって宣伝していけばいいのかすごく悩みましたし。自分ができたことといえば、雑誌に出演してスポンサーのクレジットで Supreme をアピールするくらいでしたから

MIMIC
でも当時って、どんなスポンサーが付いているかがスケーターにとっての大事な価値基準だったじゃないですか。Supreme が付いていると「おーすごいね!」という感じになりませんでしたか?

土屋
知っている人は「 ヤベーじゃん! 」って言ってくれてたんですが、よっぽど興味のある人じゃないかぎり、ニューヨークのいちショップであった Supreme に注目しているということはなかったですね

MIMIC
Supreme と同じく、Zoo York も映画ではキーブランドとして登場しているのですが、 QUEENZ や METROPIA で一緒だった江口さん ( 江口勲二郎 / 早くからメディアの重要性に着目し、多くの商業メディアでスケーター発の情報を発信。土屋さんたちとともに QUEENZ や METROPIA を立ち上げ、日本のスケートシーンに貢献を果たした。現在は、スケートメディア『 VHSMAG 』でインターンという名の主宰者を務める ) が Zoo York のライダーだったこともあり、なんとなく Zoo York も土屋さん周辺には好きな人が多かったのかなという印象なんですが

土屋

確かに Zoo York の『 MIXTAPE 』が発売されたタイミングで、勲さんとは『 Ollie 』で対談したくらいですから(笑)

QUEENZ の中心人物2人が Zoo York の『 MIXTAPE 』について語った『 Ollie 』のお宝記事!!  画像を拡大すると少し荒いですが、記事も読めます

MIMIC
うわ〜懐かしい!! というか、MIMICメンバーもまだ携わる前の『 Ollie 』ですよね〜!江口さんも土屋さんも若いですね〜!『 MIXTAPE 』には当時どんな印象をお持ちになりましたか?

土屋

今振り返ると、『 MIXTAPE 』のリリースを機に、しっかりカッチリ!トリックを決めるスケートスタイルよりも、ダラッとユル〜くしなやかなスケートで流れを楽しむスケーターが増えていった気がするんですよね。というのも、『 MIXTAPE 』では、よろけの美学(色気)といいますか、メイクした後の余韻といいますか、そんな自然なスケートの空気感がニューヨークという街に上手く溶け込んでいたからなんです。

昼に撮影された映像では、映画『 KIDS 』にも登場するセントラルパークも出てきたりするので、背景にあるニューヨークのカルチャーともシンクロしながら、みんな影響を受けていたと思いますよ

MIMIC
記事内では、『 KIDS 』にも出演し、 GAP ( ギャップ ) や Calvin Klein ( カルバンクライン ) のモデルを務めたピーター・ビシや、ビデオ内で使われている音源へのこだわりなんかで話が盛り上がっていますね

土屋
今でこそ、ディラン・リーダーやアレックス・オルソンといったモデルもこなせる実力派のイケメンスケーターは出てきましたが、その元祖といえば、間違いなく、ピーター・ビシでしたよね。しかも、彼のパートで使われたレゲエのダブのミスマッチ感がめちゃくちゃハマっていて! 友人のDJにその音をループさせたカセットテープを作ってもらい、当時愛用していた Shockwave でそれを聴きながらよくプッシュしていましたね

MIMIC
それ以外に印象に残っているシーンはありますか?

土屋

黒の Zoo York のフードを被って滑る彼らが、側溝から湯気の上がる夜の街に溶け込んでいる様子は、あの時代を共有したスケーターなら鮮明に記憶に残ってるはずです。プッシュしているだけでカッコいいという、スケートの大事な本質に気づかせてくれたのも彼らでしたね。なので、いまだにプッシュがカッコいいスケーターを注目してしまいます (笑)

こちらは土屋さんと江口さんの対談記事の対向ページに出稿された『 MIXTAPE 』の広告。今見ても圧倒的にカッコいい

土屋さんが当時愛用していた Zoo York のジップフーディー

MIMIC
そうしたなかで、この記事では QUEENZ も Zoo York のようなファミリー感のあるクルーにしたいという話が挙がっていますね。名前自体、ニューヨークにある5つの区のひとつですし、やっぱり QUEENZ もニューヨークシーンを意識して結成されたんですか?

土屋
もともとは FESN の撮影を通してセッションが始まったんですが、「 せっかく縁あってつながれた仲間だから、スケートチームにしてみない? 」ということで結成されることになったんです。でも、名前は当初「 キングスにしよう 」という案が挙がっていたんですよ

MIMIC
それはどういった経緯からですか?

土屋
結成の中心的メンバーだった僕と勲さんの頭文字の「 K 」をトランプに見立てると、キングだったからです (笑)

MIMIC
え〜! QUEENZ の結成に、そんな秘話があったんですか??

土屋
でも、キングだと強すぎるから、その下のクイーンくらいでいいんじゃない、ってことで QUEENZ になったんです (笑)

MIMIC
てっきり、ニューヨークのクイーンズ地区から名前をとったんだと思っていました

土屋
いや、もちろん、当時の僕らはニューヨークを意識したスケートスタイルでしたから、そこにもかけているんですけどね。あとは名前の響きの美しさとか

MIMIC
なるほど〜そうだったんですね。メンバーはどのようにして決めていったんですか?

土屋

各地のスポットを回って、自分たちが惚れ込んだスケーターとセッションを繰り返していき、そのなかで意気投合したライダーに声をかけさせてもらいました。その結果、ビル街からシーサイドまで、関東を東西に結ぶ、東京、横浜、横須賀の3都市のスケーターで構成されることになりました

メンバーは土屋さん、江口さんのほか、横浜ローカルの田口悟さん、レペゼン池袋の北島宗和さん&権生純一さん、中野ローカルの栗林悟さん&サイモンロケットさん、横須賀からは高山仁さんと DEMI こと関本秀巳さんが参加。写真は当時の『 Warp 』より

MIMIC
ツアーに出かけたりとか、チームっぽい活動もされていたんですか?

土屋
していましたよ。結成したタイミングでレバンテ ( es ( エス ) や NORTHWAVE ( ノースウェーブ ) などを取り扱っていたスケート&スノーの代理店 ) がサポートしてくれることになったので、ツアー費なんかも出してくれていました

MIMIC
METROPIA もレバンテで取り扱われていましたが、レバンテとはつながりがあったんですか

土屋
杉本さんという社員の方がよくしてくれたので

MIMIC
えっ、homless を手がけていた杉本さんですか?

土屋
あ、そうです

MIMIC
杉本さんってもともとレバンテにいらっしゃったんですね!

土屋

そうなんですよ。なので、ビジネスというよりも遊びの延長としてスタートした感じなんです

MIMIC
なんとなく仲のいいメンツで遊んでいたら、ビジネス的にも上手くいっちゃったパターンですね。いかにも《あんとき》らしいエピソードといいますか。ちなみにアパレルなんかも作っていたんですか?

土屋

作ってましたよ。初期の頃は、ゴンちゃんの地元のカミナガくんというデザイナーがデザインしてくれていました。その後は、自分たちでもアイデアを出し合うようになって「 こんなアイテムが欲しいよね 」というのを形にしていきました。当時はドメスティックブランドの隆盛期だったので、僕らもそういったブランドのひとつとしてやっていました

こちらは土屋さんがデザインを考案した QUEENZ のフーディー。METROPIA の初期アイテムにも通ずる、優れたフォントセンスを感じさせるロゴデザイン

超初期の QUEENZ のアイテムに配されたピスネーム。こちらは先述のカミナガさんのデザインワーク

MIMIC
全編モノクロ映像が展開されるチームビデオ『 Del Sonterra 』は、『 Eastern Exposure 』を彷彿とさせるような東海岸っぽい作品でしたよね

土屋

あれは本当に上手くフィットしましたよね。実は偶然の産物だった一面もあって、カラー映像の粒子が荒かったから、モノクロにしたという経緯があったとかなかったとか。まぁ、信じるか信じないかは、アナタ次第なんですけどね! (笑)

MIMIC

そんな都市伝説のような貴重な初出しエピソードもありがとうございます!

 

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homless との連名でリリースされた名作『 Del Sonterra 』。パッケージデザインは、江口さんやスケートフォトグラファーの ISAM さんとともに当時の『 Warp 』のスケート記事を制作していたデザイナーの ETSU さんが担当

音楽だけでなく、スケーターのファッションにも影響を与えていたヒップホップカルチャーのアティチュード

MIMIC
そして、映画ではスケートとヒップホップカルチャーの融合もひとつのテーマになっているんですが、土屋さん自身も当時、そうしたムーブメントが到来していることを実感することはありましたか?

土屋
それまではファーサイドとかの西海岸系のヒップホップが人気だったんですが、Menace ( メナス ) とかのスケートビデオで、Wu-Tang Clan や Method Man ( メドッドマン ) などのニューヨークの太い音のヒップホップが使われ出したのが転機だったと思います。スケートよりも先にヒップホップの方からニューヨークのムーブメントが来たという印象がありますね

MIMIC
Red Bull のインタビューでカリーム・キャンベルが、リリース前の『 Protect Ya Neck / Method Man 』のカセットテープを RZA 本人が持ってきたという話をしていました。当時のストリートに多大な影響力を持っていたカリームにプロモーションしてもらいたかったみたいで

土屋

カリームといえば、メソッドマン。メソッドマンといえば、カリームというぐらい、『 20 Shot Sequence 』で使われた『 Bring The Pain 』の衝撃が凄かったです。ちょうどLAのヒップホップとニューヨークのヒップホップの橋渡し役だったのかも!?

後に WU-WEAR ( ウーウェア ) もスケート業界へ進出してくることになりますが、いち早くBPトレーディング ( QUEENZ でチームメイトだった高山仁さんもかつて働いていてスケートボードの代理店 ) の西林さんが代理店を務めていたのも思い出深いですね

スケートシーンへ進出した Wu-Tang Clan は、ジャーマル・ウィリアムスなどのスケーターともコラボアイテムをリリースしていた模様。雑誌『 Ollie 』より

ニューヨーク発のアパレルカンパニーでスケーターとラッパーの双方をスポンサードした PNB NATION ( ピーエヌビーネイション ) もクロスカルチャーを語るうえでハズせないブランドだった

MIMIC

一般的には Underworld Element の『 Skypager 』が、Gang Starr ( ギャングスター ) を はじめ、全編ヒップホップの曲を起用することで、シーンに初めてクロスカルチャーな世界観を提示したといわれていますが、日本のリアルな実情だと、カリームと Wu-Tang Clan がコラボしはじめた頃からそうしたムーブメントの到来を感じるようになったんですかね?

土屋

捉え方は人それぞれだと思うんですが、僕の認識だとそうですかね。当時の日本のヒップホップシーンともシンクロしながら、東海岸のヒップホップやニューヨークのカルチャーとともに盛り上がっていったイメージです。とにかく夜が似合うスケートスタイルなんですよね、ニューヨークは。徐々に日本もそういった方向にシフトチェンジしていきましたね


『 20 Shot Sequence 』の Menace のパートでは、Method Man の「 Release Yo’ Delf 」が起用された

MIMIC
ちなみに日本でもスケートとヒップホップが融合するようなシーンは存在していたんですか?

土屋
そのジョイント役はダイコンくんが一役買っていたと思いますよ。YOU THE ROCK★ さんとも仲が良かったから、そのつながりでヒップホップ界隈の人たちとの交流が始まっていったんじゃないかな

MIMIC
森田さんが制作した OWN のプロモビデオにも、「 証言 」のプロデューサーだった DJ YAS の音源が起用されていましたよね。ちなみに土屋さんもスケートビデオで使われている音源を探って、実際にレコードを買いにいったという経験はありますか?

土屋

もちろん、ありますよ!ヒップホップとは脱線しちゃいますが、それこそ、自分にとってレコードを掘るキッカケになったのは、モックンとRIKACOさんとフミヤさんが出演していたトーク番組「素敵な恋をしてみたい」で放送された、ムラジュンさんがスケボーで日本一周するっていうショートムービーだったんです。日本一周のための資金をつくるのに、大事なレコードを売りに行く場面があったんですが、それを中学3年生のときに見て、すごく衝撃を受けまして。

当時は高井戸ローカルがリリースした『 トップ6 』というビデオをよく見ていたので、その中で使われていたALLというメロコアのバンドの「 She’s My Ex 」という曲をレコードで買ったのが、初めてスケートビデオで影響を受けて買ったレコードでしたね


先述のムラジュンさんが主演を務めたショートムービー「 SKATEBOARD 」は、藤井フミヤさんが監督を務め、音楽を藤原ヒロシさんが担当、ラストオージー2を連載したJONIOさんやNIGOさんも出演した

 

MIMIC
ヒップホップだとどんなのを聞いていたんですか?

土屋

Plan B ( プランビー ) のビデオの影響からビースティ・ボーイズをディグって、ニュータイプのビデオからファーサイドやファンクドゥービースト、サイプレスヒルなんかをディグっていましたね。そのほか、GURU や Gang Starr、Beatnuts ( ビートナッツ ) や Smif n’ Wessun ( スミフン・ウェッスン ) なんか経て、日本語ラップや日本語レゲエも聞いていました。これもスケートビデオのお陰なんでしょうけど、その日の気分と曲でその日のスケートのラインとかを決めて、滑っていました

MIMIC
それと当時のスケーターのファッションって、ヒップホップシーンから多大な影響を受けていたと感じるのですが、いかがですか? 例えば、土屋さんも東海岸のラッパーたちにお馴染みだったカモフラ柄の軍パンや“通”なBボーイに好まれていた Sergio Tacchini ( セルジオタッキーニ ) のジャケットなんかを着て滑っていらっしゃったと思うんですが

土屋
確かにそれはそうかもしれないですね。それまでのスケーターのファッションって、スケートブランドのアイテムを身につけているかどうかがポイントだったと思うんですが、ニューヨークのスケーターたちはもっと自由にファッションを楽しんでいて、その人らしい着こなしを表現していました。その影響から自分も「 〇〇を着ないといけない 」という縛りをどんどん取っ払っていくようになって、一時期はスケートシューズすら履かなくなったときもあったんです(笑)。そこから人と被らないファッションを模索していって、みんなが着ていないよう服を着るようになっていきましたね

MIMIC
じゃあ、LAST ORGY 2 ( ラストオージー2 ) のTシャツを着て滑っていたのも、ある種のハズしのような意味合いがあったんですか?

土屋
そうなんですよ。スケートブランドではないけど、ストリートの雰囲気を感じさせるアイテムということで選んでいました。あの当時、胸に大きくブランドの頭文字がプリントされたTシャツが WORLD INDUSTRIES からリリースされていたのを覚えていますか?

MIMIC
あ、出てましたね。『 NEW WORLD ORDER 』のジャケでみんなが着ているやつですよね

土屋

そうそう、あれをイメージして選んでいたんですよ

’93年にリリースされたタイトル『 New World Order 』。デーウォン・ソンをはじめとするライダーたちが着ているTシャツは、確かにあの「2」が大きくプリントされたTシャツと似ている

MIMIC
そうだったんですか!! 見る人が見ればわかる、めちゃ高度な遊びだったんですね〜。おみそれいたしました。ちなみに当時穿いていたカモフラ柄の軍パンってどこのだったんですか? 真似したくて結構探した記憶があるんですが

土屋

特に気に入って穿いていたのは、向こうの猟師が穿くハンターカモという迷彩で、ブッシュウォークというリアルツリーのやつでした。そこもやっぱり差別化じゃないけど、人と違うのを選びたくて、ウッドランドやタイガーカモといった戦争に使われるカモ柄じゃないのを選んでいましたね

多くのキッズが真似したくなった ( 少なくとも編集部の某部員は羨望の眼差して見ていた ) 土屋さんが穿きこなすリアルツリーの軍パン。当時の土屋さんのトレードマーク的アイテムだった。雑誌『 Warp 』より

MIMIC
本日は、土屋さんがニューヨークシーンに興味を持ったきっかけに始まり、日本でも人気だった Zoo York や Supreme の話、そして QUEENZ の結成秘話など、たくさんのお話を聞かせてもらいました。最後に、ニューヨークや東海岸発のスケートムーブメントがのちのスケートシーンやストリートシーンに与えた影響について個人的なご意見をいただき、インタビューを締め括らせていただいてもよろしいでしょうか?

土屋

一番は、先ほどもお話したスキル至上主義のスケートからスポットや街を上手く使ったスケートへ移行するきっかけを提供したということに尽きると思います。ニューヨークのスケートムーブメントを機に、スケートの楽しみ方が大きく変わりました。

それと Zoo York をはじめとするニューヨークのスケーターたちが、人種の坩堝といわれるニューヨークの街を体現するかのようにお互いをリスペクトし合って、シーンを形成していたことにも僕らは強く影響を受けました。だからこそ、スケート、ヒップホップ、グラフィティ、ファッションといったさまざまなカルチャーが融合して、今のストリートカルチャーのルーツがつくられたんだと思います。今振り返ると、『 MIXTAPE 』というタイトル名は、まさに当時のニューヨークシーンの実情を的確に言い表したタイトル名だったのかもしれませんね

MIMIC
本日は貴重なお話を本当にありがとうございました!

 

土屋さんがハンドメイドで製作する K.C.V

「 日常に映像で見るスケートボードではなく、想像するスケートボードを 」をコンセプトに土屋さんがハンドメイドで製作するK.C.Vのアイテムは、小物入れや灰皿など、さまざまな用途に使用可能。スケーターを中心にじわりじわりと人気を集めています。

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