世界的に再燃する’90年代ストリートブームに後押しされる形で、ドキュメンタリー映画『 All the Streets Are Silent 』が10月21日に公開されました。内容は、Zoo York ( ズーヨーク ) や Supreme ( シュプリーム ) などのニューヨークブランドに所属するライダーたちが築き上げたスケートスタイルと、Wu-Tang Clan ( ウータンクラン ) や Busta Rhymes ( バスタ・ライムス ) といったニューヨークのラッパーたちから発信されたヒップホップカルチャーが融合した、’90年代のニューヨークストリートカルチャーの黄金期を振り返るというもの。
早々に映画を観た人たちからは「 スケート×ヒップホップの金字塔として名高い Zoo York の『 MIXTAPE 』をボリュームアップさせた面白い映画だった! 」という絶賛の声も届いています。
ニューヨークスケートのアイコン、ハロルド・ハンターが登場する映画のイメージ画像は 公式サイトより。映画の詳しい内容も公式サイトからチェックできます
そこで今回の MIMIC では『 All the Streets Are Silent 』で描かれているニューヨークスケートシーンの勃興をリアルタイムで体感し、日本で唯一の Supreme ライダーとして日本のストリートスケートの黎明期から活躍していた土屋敬志さんをゲストに迎え、《あんとき》のニューヨークシーンの魅力や日本シーンに与えた影響などについて振り返っていきます。当時の日本のヘッズたちは《あんとき》のニューヨークシーンをどう捉え、何を感じ取っていていたのか? 映画を観た人にもさらに楽しんでいただける、そんなもうひとつのアナザーストーリーが開幕です!
写真はハロルド・ハンター ( 右 )と写る土屋さん ( 左 ) と元 homless ( ホームレス ) のデザイナー ( 中 )
以前「 ラストオージー2のTシャツを着てFESNのビデオに登場していた 」というエピソードを紹介した homless の記事 をチェックしてくれていた土屋さんは、取材当日なんと当時のオリジナルTシャツを着用してきてくれました!古くから土屋さんを知るスケーターなら思い出深いTシャツですが、どうして文脈の異なるスケートシーンで着用していたのか?その真相もこのインタビューで明らかになります!
土屋敬志(つちや・けいし)
’95年に FESN からリリースされた1stタイトル『 Far East Skate Network 』で、ルーキーとしてテクニカルかつスタイリッシュなフルパートを披露し、シーンに鮮烈なデビューを飾る。以来、Supreme をはじめとする多くの人気ブランドからスポンサードを受けながら、QUEENZ ( クイーンズ ) や METROPIA ( メトロピア ) といった日本を代表するスケートチームで唯一無二の存在感を発揮。日本発のデッキブランド、テラファーマからはシグネチャーモデルもリリースした。現在は本業の美容師の仕事のかたわら、ハンドメイドのコンクリート製プールをリリースするブランド、K.C.V( Kokorozashi Concreate Vibes )を展開。コミック『 少年イン・ザ・フッド 』を手がける SITE 氏の Ghetto Hollywood や人気アパレル X-LARGE ( エクストラ・ラージ ) などともコラボレートを果たす。
早すぎた天才、石沢彰から教わったストリートスケートの作法と、日本で一番イーストコーストだった大阪のエピソード
近年、’90年代に黄金期を迎えたストリートカルチャーへの再評価がすごく高まっていまして、映画『 All the Streets Are Silent 』もそうした流れのなかで公開されることとなりました。テーマとなっているのが、土屋さんたちも夢中になった’90年代中頃のニューヨークスケートシーンの勃興ということもあって、本日は当時のニューヨークシーンの魅力や日本のシーンに与えた影響などについて話をお聞きできればと思っています。
さっそくですが、土屋さんがニューヨークや東海岸のスケートシーンに興味を持ったきっかけを教えてもらえますか?
僕らが中高生の頃に海外の情報をいち早く日本へ届けてくれていたのは、『 411VM 』というビデオマガジンや『 TRANSWORLD SKATEboarding 』や『 Thrasher 』などの雑誌でした。’90年代中頃になると、それらのメディアでニューヨークやフィラデルフィア、ワシントンDCなどの特集が組まれるようになったり、Zoo York の広告を見かけるようになって、次第にその魅力が刷り込まれていった感じですね。
あと、日本では ZIZOW くん( 北村 “ZIZOW” 浩一 / 鵠沼シーンの支柱として、中島壮一朗氏らととも湘南スケートをネクストレベルに押し上げた立役者 ) が早くから Zoo York のライダーを務めていたので、その影響もあったかもしれません
えっ!? ZIZOW さんって Zoo York のライダーだった頃があるんですか?
ガムガムが代理店を始める前だったと思います。何の雑誌の広告だったか覚えてないんですが、イーライの描いた Zoo York のタグが全面にプリントされたデッキに乗っていたのが印象的でしたしたね。
当時のスケートシーンはLAを中心とする西海岸スタイルが主流だったので、ニューヨークにスケートシーンがあることも Zoo York をきっかけに知ることになりました。また、アメリカに西海岸、東海岸という括りがあって、それぞれに違うカルチャーやライフスタイルを持っていることもこの頃から知るようになった感じです
’94年にリリースされた『 411VM 』のIssue 6 では、インダストリーのコーナーで Zoo York がフューチャーされる。当時のBボーイたちから支持の高かった FILA のパーカーを着用してスタートするオープニングにニューヨークらしいクロスオーバー感が滲み出る
雑誌だと、特に印象に残っている特集はありますか?
手元に残っているものだと、この 『 TRANSWORLD SKATEboarding 』 のニューヨーク特集はよく読んだ記憶がありますね。
皆さんにもお馴染みのスケーターたちが数多く出演しているんですが、こういうのを読んで、「 あ、このライダーはニューヨークのスケーターなんだ 」とか、「 東海岸とつながりのあるライダーなんだ 」ってことを勉強していました(笑)。それが楽しかったし、自分の世界を広げるきっかけにもなりましたね
’95年2月号の『 TRANSWORLD SKATEboarding 』より。ライアン・ヒッキーやハロルド・ハンターも登場 ( 土屋さん私物 )
動画接客ツール ザッピング で投稿
こうやって雑誌などのメディアでニューヨークの特集や東海岸の特集が組まれているのを見ると、本国でも盛り上がっているんだなというのを実感できますし、ニューヨーク熱も高まってきますよね。ちなみに、当時のこうしたムーブメントを受けて、特に好きだったスケーターや影響を受けたスケーターっていらっしゃいますか?
私事で恐縮なんですけど、やっぱり地元の先輩だった石沢彰くん ( イーサンの愛称で親しまれたレジェンドスケーター。横浜をホームタウンに活躍。ニューヨークの人気ブランド、5BORO ( ファイブボロ ) からはシグネチャーデッキもリリースした ) が自分のルーツにあるんですよね。
日本のシーンも次第にストリートスケートが主流になりはじめ、発展途上だった横浜や東京の街にもたくさんのオフィスビルが建てられるなかで、ニューヨークや東海岸のスケートスタイルを真似ながら夜のビル街で滑る楽しさを教えてくれたのがイーサンだったんです
先日も FESN の森田貴宏さん ( ビデオプロダクション、 FESN の代表で、アパレルブランド、LIBE ( ライブ ) の主宰者。ストリートスケートの実践やヒップホップカルチャーとのフュージョンなど、映画のトピックとなったテーマを日本でいち早く体現したスケーター ) が、土屋さんと石沢さんと田中竜一さん ( 梶谷雅文氏や荒木塁氏、EXPRESSION ( エクスプレッション ) のメンバーたちとともに関西シーンを盛り上げたキーパーソン。現在はウィールカンパニー、Strush ( ストラッシュ ) のディレクターを務める。西のスケビ博士としても有名 ) とセッションした当時のレッジを振り返り、石沢さんとの思い出を語っていましたが、やっぱり、コアなスケーターの方たちからの評価の高いスケーターだったんですよね?
石沢彰さんとのセッションを振り返る FESN の YouTube「 THE SESSION with AKIRA ISHIZAWA – 1996 」より
すべてが早すぎた人なんですよね。時代の先を行きすぎちゃってたんで、コンテストとかに出てもジャッジが追いついていけてないレベル。本当に誰もやったこともないようなトリックをいきなりやるのが好きな人だったから「 今の何? 」みたいな感じでジャッジも点数を付けれなかったんです
MIMIC 編集部から「 ニューヨークのスケートスタイルがシーンに与えた影響について教えてください 」というお題を事前にいただいていましたけど、その答えはスキル至上主義だった西海岸主流のスケートスタイルから僕らを解放してくれたことにあったと思うんです。ジャッジに点数をつけてもらうようなスケートではなく、「 街中の制約されたスポットのなかでいかに自分を表現するか 」というスケートにシフトチェンジするきっかけを提供してくれたといいますか
その点、石沢さんはトリックの難易度どうこうではなく、スポットや街を上手く使ったニューヨークや東海岸のスケートスタイルをいち早く実践していたわけですね
そうですね。警備員が来るまでの間に自分が狙ったところを確実にシュートしていくスケートスタイルや、警備員が来たら次のスポットへ転々と流れていく滑り方なんかもイーサンに教わりましたね
ということは、横浜では石沢さんを中心に、土屋さんや田口悟さん ( 横浜シーンを代表するスケーターで土屋さんの先輩。現在はアパレルブランド、CHALLENGER ( チャレンジャー ) のデザイナーを務めている ) といった後輩スケーターが続く形で、ニューヨーク的なストリートスケートのシーンが形成されていったというわけなんですね。ちなみに東京や横須賀にもそういったシーンはあったんですか?
全国各地で同時多発的に、僕らのイーサンに当たるような先輩が後輩を連れて、ストリートでスケートを楽しむシーンができていったと思います
まさにムーブメントですね。特に誰が言い始めたわけではないけど、同時代的にみんなが同じものに興味をもって、同じ方向に向かっていくという
そんななかでも、特にその意識が高かったのは関西シーンだったと思いますね。ニューヨークのスケートスタイルはもちろん、Zoo York や Supreme といったニューヨークブランドへの理解も非常に深くて、そのカッコ良さを自分たちのなかに取り込むことに一番成功していたのが大阪や神戸のスケーターだったんじゃないかな
確かに土屋さんもサポートされていた EXPRESSION の方たちも、ヴェニスさん ( EXPRESSIONの一員 として’90年代から関西のスケートシーンを牽引。ライフスタイルブランド DORCUS TOP BREEDING SYSTEM ( ドーカス トップブリーディングシステム ) のディレクターも務める ) を筆頭に Zoo York からサポートされていましたね。おっしゃるとおり、ニューヨークのスケートスタイルに特化していた印象があります
EXPRESSIONの総裁、岡本一太郎くん ( EXPRESSIONのアパレルやデッキのデザインはもちろん、フッテージの制作までマルチに手がける凄腕のクリエイターでもあり ) が日本の Zoo York の広告を制作していたので、その背中を大阪スケーターたちが追ってたという側面もあったかもしれませんね
’97年にリリースされた EXPRESSION の1stビデオ『 FIRST SEQUENCE 』より
それと以前、荒木塁さん ( 神戸シーンを代表するスケーターで、フランスのスケートブランド、Magenta Skateboards ( マゼンタ・スケートボード ) からはゲストボードもリリース。現在はアパレルブランド ”L.I.F.E” のディレクターやフォトグラファーとしても活躍 ) に取材をさせてもらった際に、関西は阪神・淡路大震災以降に新しいビル群ができたことで、ストリートスケートに恵まれた環境が生まれ、それが神戸や大阪のストリートシーンを育んでいったというお話を聞いたんですが、やっぱりそうした土地柄も影響していそうですよね
土屋さんが特に大阪にニューヨークっぽさを見出したエピソードってありますか?
EXPRESSION の撮影で大阪を訪れたときに大起 ( 細田大起 / 東海岸のスケートスタイルを日本で見事に体現した天才肌。玄人なスケーターたちからの支持は圧倒的だった ) やコンチ ( 近藤広司 / テクニカルかつスタイリッシュなスタイルで、スケートでも夜遊びでも EXPRESSION の秘蔵っ子として活躍 ) たちがチャリンコでバイトに出かけながら eight ( エイト:今はなき、大阪の中心的スケートショップ ) に集まって、その前でスケートしてる姿がものすごくニューヨークっぽいなと衝撃を受けたことがありましたね。
のちに東海岸スタイルを代表するスケーターとして頭角を現す二人だけど、もう高校生ぐらいの頃からゴチャゴチャと遊んでいるだけでニューヨークの空気感が滲み出ちゃってたもん
Zoo York のライダーだったロビー・ガンジェミが始めた Supreme 傘下のデッキブランド、VEHICLE ( ヴィークル ) や、同じく Zoo York のライダーだったジェフ・パンやピーター・ビシが立ち上げたアパレルブランド、UXA からもサポートを受けた細田大起氏。スタイルの重要性をテーマとした『 SLIDER 』のvol.33で表紙を飾ったことからも彼のすごさがうかがい知れる
Supreme の店前でタムロするニューヨークスケーターみたいな?
まさにそれ!
スケートスタイルだけにとどまらず、日常でもニューヨーク感があふれ出てしまっていたんですね
街で滑ってクラブ行って、ラッパーやDJとセッションしてというライフスタイルは、まさにニューヨークのスケーターの日常そのもの。大起もコンチもスケートのためにわざわざ鳥取から大阪へ引っ越してきていたんですが、彼らもいち早く大阪という街にニューヨークや東海岸っぽさを見出していたようですよ。それこそ、第何世代ていえばいいんだろう(笑)?
自分たちが若手の子たちから素直に影響を受けはじめ、世代を越えてひとつの目標に向かえるものすごい時代でしたね。これも世界で同時多発的に到来した「後継者発掘」のムーブメントだったのかも
Supreme のスポンサードを決定づけた2人のキーマンとは?
そうしたなかで、土屋さんはニューヨークスケートシーンのキーショップともいえる Supreme のスポンサードを受けることになりますよね。Supreme との出会いは、どのようにして生まれたのですか?
今、MIMIC では藤原ヒロシさんが雑誌『 CUTiE 』で連載していた「 HFA( Hiroshi Fujiwara Adjustment )」というコーナーをディグしているんですが、初期のロンディスではスケートブランドも取り扱っていたみたいですね
そうなんですよ。初めて訪れたときには、スケートショップなんだと勘違いしていましたから
’91年6月号の『 CUTiE 』に掲載された「 HFA 」より。マット・ヘンズリーが手がけた A1 MEATS ( エーワン・ミーツ ) や Blind ( ブラインド )、WORLD INDUSTRIES ( ワールドインダストリーズ ) などのTシャツも問い合わせ先はロンディスになっていた
土屋さんが当時ロンディスで購入したというロンドンのスケートブランド、Insane ( インセイン ) のバッグ。Insane のアイテム欲しさに初めてロンディスを訪れたそう (土屋さん私物)
ほかのスケートブランドにはない大人っぽさに痺れていました
土屋さんが衝撃を受けたという Supreme の迷彩ボックスロゴ。いつの時代も色褪せない不朽の名作(土屋さん私物)
森田くんはもともと新宿のジャブ池ローカルだったこともあり、新宿界隈にあるオフィス街のスケートスポットを熟知していたし、本人は意識せずともそういうノリが自然と染みついている印象でした。なので、連れていってくれるのは、いわゆる東海岸のスケーターが好きそうなスポットばかりでしたね。
でも、なんて言うのかな〜? 意識してそういう毛色の人と無意識にそれができちゃう人との違いとでも言うのでしょうか。映像としての撮られ方や撮り方に、良い意味で毒のある絶対的な感性を持ってる人なので、きっと本人に聞いても、「 全部を意識してたと言えばしてたと思うし、してなかったと言えばしてなかったかな 」とか言いそうなイメージはありますね(笑)
今日も当時のアイテムを少し持ってきました。今だと考えられないと思うんですが、プリントミスやステッチミスがあったようなB品が配給されてたんですよ(笑)
こちらが土屋さんがもらっていた Supreme の初期のアイテム。よく見ると英字の刺繍がつながっていたり、版ズレを起こしていたりしている
動画接客ツール ザッピング で投稿
Dice&Dice が条件などの面で本国の Supreme と折り合いがつかず、取り扱いをやめることになって自然消滅した感じです
今振り返ると、『 MIXTAPE 』のリリースを機に、しっかりカッチリ!トリックを決めるスケートスタイルよりも、ダラッとユル〜くしなやかなスケートで流れを楽しむスケーターが増えていった気がするんですよね。というのも、『 MIXTAPE 』では、よろけの美学(色気)といいますか、メイクした後の余韻といいますか、そんな自然なスケートの空気感がニューヨークという街に上手く溶け込んでいたからなんです。
昼に撮影された映像では、映画『 KIDS 』にも登場するセントラルパークも出てきたりするので、背景にあるニューヨークのカルチャーともシンクロしながら、みんな影響を受けていたと思いますよ
黒の Zoo York のフードを被って滑る彼らが、側溝から湯気の上がる夜の街に溶け込んでいる様子は、あの時代を共有したスケーターなら鮮明に記憶に残ってるはずです。プッシュしているだけでカッコいいという、スケートの大事な本質に気づかせてくれたのも彼らでしたね。なので、いまだにプッシュがカッコいいスケーターを注目してしまいます (笑)
こちらは土屋さんと江口さんの対談記事の対向ページに出稿された『 MIXTAPE 』の広告。今見ても圧倒的にカッコいい
土屋さんが当時愛用していた Zoo York のジップフーディー
各地のスポットを回って、自分たちが惚れ込んだスケーターとセッションを繰り返していき、そのなかで意気投合したライダーに声をかけさせてもらいました。その結果、ビル街からシーサイドまで、関東を東西に結ぶ、東京、横浜、横須賀の3都市のスケーターで構成されることになりました
メンバーは土屋さん、江口さんのほか、横浜ローカルの田口悟さん、レペゼン池袋の北島宗和さん&権生純一さん、中野ローカルの栗林悟さん&サイモンロケットさん、横須賀からは高山仁さんと DEMI こと関本秀巳さんが参加。写真は当時の『 Warp 』より
そうなんですよ。なので、ビジネスというよりも遊びの延長としてスタートした感じなんです
作ってましたよ。初期の頃は、ゴンちゃんの地元のカミナガくんというデザイナーがデザインしてくれていました。その後は、自分たちでもアイデアを出し合うようになって「 こんなアイテムが欲しいよね 」というのを形にしていきました。当時はドメスティックブランドの隆盛期だったので、僕らもそういったブランドのひとつとしてやっていました
こちらは土屋さんがデザインを考案した QUEENZ のフーディー。METROPIA の初期アイテムにも通ずる、優れたフォントセンスを感じさせるロゴデザイン
超初期の QUEENZ のアイテムに配されたピスネーム。こちらは先述のカミナガさんのデザインワーク
あれは本当に上手くフィットしましたよね。実は偶然の産物だった一面もあって、カラー映像の粒子が荒かったから、モノクロにしたという経緯があったとかなかったとか。まぁ、信じるか信じないかは、アナタ次第なんですけどね! (笑)
そんな都市伝説のような貴重な初出しエピソードもありがとうございます!
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homless との連名でリリースされた名作『 Del Sonterra 』。パッケージデザインは、江口さんやスケートフォトグラファーの ISAM さんとともに当時の『 Warp 』のスケート記事を制作していたデザイナーの ETSU さんが担当
音楽だけでなく、スケーターのファッションにも影響を与えていたヒップホップカルチャーのアティチュード
カリームといえば、メソッドマン。メソッドマンといえば、カリームというぐらい、『 20 Shot Sequence 』で使われた『 Bring The Pain 』の衝撃が凄かったです。ちょうどLAのヒップホップとニューヨークのヒップホップの橋渡し役だったのかも!?
後に WU-WEAR ( ウーウェア ) もスケート業界へ進出してくることになりますが、いち早くBPトレーディング ( QUEENZ でチームメイトだった高山仁さんもかつて働いていてスケートボードの代理店 ) の西林さんが代理店を務めていたのも思い出深いですね
スケートシーンへ進出した Wu-Tang Clan は、ジャーマル・ウィリアムスなどのスケーターともコラボアイテムをリリースしていた模様。雑誌『 Ollie 』より
ニューヨーク発のアパレルカンパニーでスケーターとラッパーの双方をスポンサードした PNB NATION ( ピーエヌビーネイション ) もクロスカルチャーを語るうえでハズせないブランドだった
一般的には Underworld Element の『 Skypager 』が、Gang Starr ( ギャングスター ) を はじめ、全編ヒップホップの曲を起用することで、シーンに初めてクロスカルチャーな世界観を提示したといわれていますが、日本のリアルな実情だと、カリームと Wu-Tang Clan がコラボしはじめた頃からそうしたムーブメントの到来を感じるようになったんですかね?
捉え方は人それぞれだと思うんですが、僕の認識だとそうですかね。当時の日本のヒップホップシーンともシンクロしながら、東海岸のヒップホップやニューヨークのカルチャーとともに盛り上がっていったイメージです。とにかく夜が似合うスケートスタイルなんですよね、ニューヨークは。徐々に日本もそういった方向にシフトチェンジしていきましたね
『 20 Shot Sequence 』の Menace のパートでは、Method Man の「 Release Yo’ Delf 」が起用された
もちろん、ありますよ!ヒップホップとは脱線しちゃいますが、それこそ、自分にとってレコードを掘るキッカケになったのは、モックンとRIKACOさんとフミヤさんが出演していたトーク番組「素敵な恋をしてみたい」で放送された、ムラジュンさんがスケボーで日本一周するっていうショートムービーだったんです。日本一周のための資金をつくるのに、大事なレコードを売りに行く場面があったんですが、それを中学3年生のときに見て、すごく衝撃を受けまして。
当時は高井戸ローカルがリリースした『 トップ6 』というビデオをよく見ていたので、その中で使われていたALLというメロコアのバンドの「 She’s My Ex 」という曲をレコードで買ったのが、初めてスケートビデオで影響を受けて買ったレコードでしたね
先述のムラジュンさんが主演を務めたショートムービー「 SKATEBOARD 」は、藤井フミヤさんが監督を務め、音楽を藤原ヒロシさんが担当、ラストオージー2を連載したJONIOさんやNIGOさんも出演した
Plan B ( プランビー ) のビデオの影響からビースティ・ボーイズをディグって、ニュータイプのビデオからファーサイドやファンクドゥービースト、サイプレスヒルなんかをディグっていましたね。そのほか、GURU や Gang Starr、Beatnuts ( ビートナッツ ) や Smif n’ Wessun ( スミフン・ウェッスン ) なんか経て、日本語ラップや日本語レゲエも聞いていました。これもスケートビデオのお陰なんでしょうけど、その日の気分と曲でその日のスケートのラインとかを決めて、滑っていました
そうそう、あれをイメージして選んでいたんですよ
’93年にリリースされたタイトル『 New World Order 』。デーウォン・ソンをはじめとするライダーたちが着ているTシャツは、確かにあの「2」が大きくプリントされたTシャツと似ている
特に気に入って穿いていたのは、向こうの猟師が穿くハンターカモという迷彩で、ブッシュウォークというリアルツリーのやつでした。そこもやっぱり差別化じゃないけど、人と違うのを選びたくて、ウッドランドやタイガーカモといった戦争に使われるカモ柄じゃないのを選んでいましたね
多くのキッズが真似したくなった ( 少なくとも編集部の某部員は羨望の眼差して見ていた ) 土屋さんが穿きこなすリアルツリーの軍パン。当時の土屋さんのトレードマーク的アイテムだった。雑誌『 Warp 』より
一番は、先ほどもお話したスキル至上主義のスケートからスポットや街を上手く使ったスケートへ移行するきっかけを提供したということに尽きると思います。ニューヨークのスケートムーブメントを機に、スケートの楽しみ方が大きく変わりました。
それと Zoo York をはじめとするニューヨークのスケーターたちが、人種の坩堝といわれるニューヨークの街を体現するかのようにお互いをリスペクトし合って、シーンを形成していたことにも僕らは強く影響を受けました。だからこそ、スケート、ヒップホップ、グラフィティ、ファッションといったさまざまなカルチャーが融合して、今のストリートカルチャーのルーツがつくられたんだと思います。今振り返ると、『 MIXTAPE 』というタイトル名は、まさに当時のニューヨークシーンの実情を的確に言い表したタイトル名だったのかもしれませんね
土屋さんがハンドメイドで製作する K.C.V
「 日常に映像で見るスケートボードではなく、想像するスケートボードを 」をコンセプトに土屋さんがハンドメイドで製作するK.C.Vのアイテムは、小物入れや灰皿など、さまざまな用途に使用可能。スケーターを中心にじわりじわりと人気を集めています。
動画接客ツール ザッピング で投稿