公式 LINE アカウントで新着情報配信中!

“恵比寿系”ムーブメントの立役者、日下部さんと振り返る!マックダディー成功の秘訣と今だからこそ話せるブランド終了まで

《 あんときのストリート 》を発掘|MIMIC ( ミミック )

“裏原”に続くファッション・ムーブメントとして、’00年代のストリートシーンを席巻した“恵比寿系”と呼ばれるブランドの台頭。Y2Kファッションの流行やハイブランドによるストリートスタイルの提唱など、世界中で再び《 あんとき 》のストリートが再評価される中、裏原と双璧を成すほどの盛り上がりを見せていたにもかかわらず、現在では語られることが少なくなってしまった恵比寿系ムーブメントについても MIMIC では振り返る必要があると考えています。

そこで今回は、恵比寿系の最重要ブランド、MACKDADDY ( マックダディー ) を手がけ、ムーブメントの中心的役割を担った日下部さんにインタビューを敢行。MACKDADDY が始動することになった経緯や恵比寿系の由来となったショップ、HEIGHT ( ハイト ) の誕生秘話、ブランドの隆盛を陰ながら支えた独自のビジネス手法や今だからこそ話せる終了までの流れなど、ブランドにまつわる一部始終をお聞きしました。

日下部 司(くさかべ・つかさ)

1970年生まれ、北海道出身。BULL THE BUFFALOS ( ブル・ザ・バッファローズ ) を経て、’93年に雷矢を結成。’97年に「 長く着られる洋服作り 」をブランドコンセプトに MACKDADDY を立ち上げる。’99年には MACKDADDY、EMPIRE ( エンパイア )、SWAGGER ( スワッガー ) をメインに取り扱うヘッドショップ、HEIGHT( ハイト) を恵比寿にオープン。これらのブランドや DEVILOCK ( デビロック ) といった人気ブランドと共に“恵比寿系”と呼ばれる一大ムーブメントを巻き起こす。’00年代にはブランド名と同名のサウンドも結成し、ダンスホールシーンでも活躍。現在はデニムリメイクやファッション小物を中心としたブランド、KYRA ( キラ ) を手がける。

MIMIC

今思うと《 あんとき 》のストリートって、原宿・渋谷・恵比寿という街に、クラブキッズ・ヒップホップ・メロコアといった異なる音楽的背景と突出した才能を持った若者たちが偶発的に集まった奇跡のタイミングだと思っています。

でも、当時はメディアが紙の時代だったので、インターネット上にそうした情報がちゃんとした形で残されていません。Y2K、ハイブランドのストリート化、ストリートアートの高騰など、《 あんとき 》には身近だったものの価値が見直され、盛り上がりを見せているのに、なかなか掘り起こすことができないジレンマがあります。

その1つが裏原宿と双璧をなす存在であった恵比寿系だと思っていて、今回は ’00年代のストリートを席巻した“恵比寿系”ムーブメントの中心ブランドだった MACKDADDY について、日下部さんと振り返っていければと思います

日下部

うん、よろしくね。でも、上手く話せるかな(笑)?

パンク好きだった4つ上の兄が情報源!ジャパコアやスケートに熱中した学生時代

MIMIC

まずは学生時代のお話から聞かせていただければと思うのですが、地元は北海道のどちらになるのでしょうか?

日下部

知床半島の西側に斜里町っていう人口1万人くらいの小さな町があるんだけど、そこの生まれで高校まではそこで暮らしてた

MIMIC

どんな子ども時代を過ごされていたのですか?

日下部

ずっと音楽が好きで中学から高校にかけては、特にロックとかパンクを聴いていたね。その影響からデニムをブリーチして着てみたり、絵を描いてみたり、いろんなものをカスタムして DIY っぽいことをよくしてたね

MIMIC

音楽・カルチャー・ファッションに関する情報源は?

日下部

一番はパンク好きだった4つ上の兄貴かな。あの当時って全国各地を謎のライブテープが回っていたんだよね。いわゆるジャパコアの人たちのライブ音源なんだけど、兄貴の友人を経由してそういったテープが本州から回って来るんで、よく聴いてた。それと雑誌は『 宝島 』と『 DOLL ( ドール ) 』だよね

MIMIC

そういった雑誌から特に影響を受けたことは?

日下部

やっぱりスケートだよね。俺が高2のときに全国的に大流行したんだけど、それにはめちゃくちゃ影響を受けたね。『 宝島 』にも SxOxB のナオトさんがデビロックヘアでスケートしている様子なんかが載ってるんだけど、足元はジョーダン1の青黒とかでキメてて、めちゃシビれるわけ! でも、周りにスケート好きの友だちはほどんどいなかったから毎日一人で練習して、すげー頑張ってた

ミスフィッツのスケートデッキに乗るナオト氏。当時掲載された雑誌にはスケートの名手であるとの記述も / 出典:Twitter

MIMIC

あの時代、ジャパコアの人たちもスケートブームを経て、ラバーソールやブーツからスニーカーにシフトして着る物も身軽になっていきましたよね

日下部

そうだね。やっぱり、スケートはシーンにすごい衝撃を与えたからね。ショーパンにスニーカーにツバを裏返したメッシュキャップが定番で、俺も見よう見まねで裏返したツバにスーサイダルみたい文字を描いたりしたもん(笑)

MIMIC

やっぱり、日下部さんは音楽から入って、ファッションやカルチャーに興味をもたれた感じですか?

日下部

もともと俺は小学校の頃から西海岸への憧れが強かったのよ。きっかけは昼の11時くらいから放映されてた『 白バイ野郎ジョン&パンチ 』なんかのアメリカドラマ。それをすごい観てたから、西海岸に住むのが当時の夢だったんだよね。

あとは『 カスタムCAR 』って雑誌が西海岸のバンに太いタイヤを履かせて、車高を落としたカスタムを載せてて、それも夢中になって読んでた記憶がある。だから、当時乗ってた自転車も同級生の中で一人だけ BMX スタイルのやつだったしね(笑)

MIMIC

ハードコアやパンクに目覚めるようになったのは?

日下部

高校生になってからだね。さっき話した謎テープが兄貴界隈から回って来るんで、ピストルズやクラッシュを聴く前からずっとジャパコアを聴いていたんだよね。だから、ピストルズを初めて聴いたときも全然物足りなくて(笑)。

それよりもG.B.H.や Discharge の方がカッコいいと思った。それで高2か高3くらいのときに OUTO や SxOxB を聴いて「 日本にもこんなカッコいいバンドがあるのか! 」と。やっぱり、当時の関西ハードコアはすごいカッコ良かったよね

MIMIC

この時代、東京へ買い物に行ったりはしていましたか?

日下部

初めて東京に行ったのは、高2のときの修学旅行。原宿についたら『 宝島 』の付録だった原宿マップを片手に A STORE ROBOT ( アストアロボット ) に直行したね。GEORGE COX ( ジョージコックス ) じゃないのよ、A STORE ROBOT のラバーソールが欲しかったんだよね


’80年代初頭に原宿にオープンし、セディショナリーズやセックスなど、パンクシーンとリンクした洋服を取り扱ってきた、《 あんとき 》のヘッズ御用達のショップ。特に日下部さんも購入したというラバーソールは、多くのファンを惹きつけた / 出典:A STORE ROBOT

上京してバンタンへ。服飾の勉強をしながら、夜な夜なライブ&クラブ三昧

MIMIC

高校を卒業した後は、バンタンですよね?

日下部

そう。でも実家が薬局だったこともあり、親からは薬剤師になるように勧められて、1年間予備校に通ったけど合格できず。それで昔から服をカスタムするのが好きだったこともあり、自分でも洋服を作れるようになりたいと思って、バンタンに進学したんだよね。ファッションデザイナーになりたいというよりは、小さいながらも当時好きだったパンクなんかを扱う自分の店を持って、そこでオリジナルの服が作れたらいいなぁと思ってた

MIMIC

お手本としてイメージしていたお店ってあったのですか?

日下部

やっぱり、A STORE ROBOT だね。あとは原宿にスイッチっていう、CAVERN(キャバーン)のスーツや LOAKE ( ローク ) のローファーなんかを扱っているパンクとモッズぽい感じのお店があったんだけど、そこにも影響を受けてたかな。北海道にいるときから、メールオーダーのカタログをよく読み込んでたので

MIMIC

上京後に DJ やバンドを始めることになるわけですね

日下部

そうだね。一人暮らしを始めて、最初に住んだのは中野区の大和町ってところで、高円寺に近いから、やっぱりライブハウスに行くわけよ

MIMIC

そこで色々な方と知り合っていった感じですか?

日下部

バンタンとライブハウス、両方のつながりが増えていった感じかな。バンタンの方はどっちかというとクラブ寄り。服飾の専門だけあって。ミロスガレージや DJ バー・インクスティックでよく遊んでた。一方でライブってなるとノリがまた違うじゃない? 2つとも刺激の種類が全然違うから、それはそれで面白かったな

MIMIC

専門学校時代からさすがのハイブリッドだったんですね(笑)。後の MACKDADDY のスタイルに通ずる部分と言いますか

日下部

なのかなぁ? やっぱり、ライブはライブで楽しかったし、クラブにはクラブの面白さがあったからね

MIMIC

ライブはどんなところに行ってたのですか?

日下部

北海道にいたときから eastern youth ( イースタンユース ) をよく聴いてたこともあって、Oi とかスキンズが好きだったのね。もちろん、その前の COBRA ( コブラ ) や Oi of JAPAN ( オイ・オブ・ジャパン ) があってのことなんだけど。

それでバンタンの友人だったヤスってやつに「 お前 Oi とかスキンズが好きだったら、俺の友だちが Oi バンドやってるから一緒に見に行かない?」って誘われて、当時やってたスキンヘッドナイトに行くようになるんだよね

MIMIC

気合いが入るイベントですね

日下部

そこに何回か行くうちに、ヤスの友だちがやっているバンドのベースが抜けたので「 お前ベース弾けたよね、入ってみない?」って誘われたのが BULL THE BUFFALOS っていう Oi バンドだったんだよね。1991年以来、このシーンにのめり込んでいくんだけど

MIMIC

《 あんとき 》って、新しく入ってくる人を歓迎しない雰囲気があり、ある種のイニシエーションを乗り越えないと認めてもらえない、そんなハードルがありましたよね?

日下部

めちゃくちゃあったけど、そこでどれだけガッツを出せるかが勝負だから(笑)。そういったハードルを乗り越えてでも中に入りたくなる、それくらいシーンとして面白かったしね。ただのパンクじゃない感じが良かったし、俺にはグッときたんだよね

MIMIC

当時は冬の時代で濃い人だけが残っていたようなタイミングですよね

日下部

そう。この時代はイカ天ブームも終わって、ライブハウスにお客さんが全然いなかった。その分、本当に好きで来てる人しかいなかったから、変なノイズも少なくて、逆に好きな人同士が仲良くなりやすかった時代かもしれないね

MIMIC

一方、クラブの方はどうでしたか?

日下部

クラブにはそういうイニシエーションみたいなのはまったくなかったから、ただただ楽しかった(笑)。特に俺らの時代は、スカやロックステディがすごい人気だったから、そういうクラブによく遊びに行ってたね

MIMIC

若干、ライブシーンともリンクしたジャンルですね

日下部

そうだね。共通の先輩とかいたしね。’92年くらいになるとヒップホップや R&B が流行るようになるんだけど、それ以前はハウスが人気だったね。そうしたなかで、俺はロンナイ( ロンドンナイト )に行きはじめるようになるわけ。

ロック DJ のパイオニア、大貫憲章氏が主催した伝説の DJ イベント「 LONDON NITE ( ロンドンナイト ) 」。新宿ツバキハウスからスタートし、ミロスガレージ、ワイヤーへと受け継がれた。日本における音楽カルチャーの礎を築き、DJ やミュージシャンはもちろん、バウンティーハンターのヒカル氏やアンダーカバーの JONIO氏といった多くのファッション関係者も輩出した“音楽学校”でもあった

MIMIC

DJ を始めたのもこの頃ですか?

日下部

そう。最初はミロスだね。先輩に誘われて、第何水曜日かの夜に月1でやるようになったんだよね

MIMIC

バンドもやって、DJ もやって、大忙しですね?

日下部

だから、たまにあったんだよ。ライブも DJ も同じ日で、機材とレコードを一緒に抱えて現場に入るとか(笑)

MIMIC

どんなジャンルをかけていたのですか?

日下部

グラウンド・ビートとか、UK ソウルとか。当時、人気だったのよ

MIMIC

ソウルⅡソウルとか? また幅が広いですね〜(笑)

日下部

他にもスカやロックステディもやったし、その前は大貫さんのプレイを真似てパンクもだね。もともと Oi が好きだから、その元ネタになったスカやロックステディも掘るようになって、さらにルーツレゲエも好きになっていった感じだね。

’92年、’93年くらいは HIPHOP × REGGAE と言ったラガヒップホップが流行っていて、アーティストで言えば、 Super Cat や SHABBA が人気だったので、そこからヒップホップもすごい聴くようになったりで、稼いだお金はほとんどレコード代に注ぎ込んでた感じ

バウンティーハンターとのつながりからブランド設立へ

MIMIC

卒業後はアパレルの会社に就職されて

日下部

UP START ( アップスタート ) っていうアパレルの会社だね。販売をやりながら企画もやって、パターン引いたりとか、工場との打ち合わせもやらせてもらっていた。1年くらいしか在籍しなかったんだけど、社長の藤堂さんにはすごいかわいがってもらって、いろいろ仕事を教えてもらったね

MIMIC

そこで学んだことで、後に役立ったことはありましたか?

日下部

社内オリジナルブランドの企画をやらせてもらったので、洋服が完成する前から、完成してお店に並ぶまでの一連の流れは、全部そのとき教えてもらったかな。その当時はほとんどの商品を韓国で生産していたんで、東大門や南大門で生地を買って、工場でサンプルを作ってもらってすぐに日本へ持ち帰るみたいな出張を、2泊3日の強行スケジュールでやってたね

MIMIC

《 あんとき 》の109系ギャルブランドも韓国で服作りをしたり、拾ったりしていましたよね

日下部

そうだね。そのギャルブランドよりも早く、そのスタイルを確立したのが藤堂さんだと思う。当時一緒に東大門に行くと、現地の人たちから「 社長!社長! 」って声をかけられて、既に有名人だったよ(笑)

MIMIC

それは ’90年代初頭ですか?

日下部

そうだね、’93年くらいかな

MIMIC

それは早いですね。韓国のメリットは、やっぱり早く作れるという部分ですか?

日下部

うん。その当時はメンズ服でも「 今年はこれが流行る 」というトレンドが明確にあったから、それをいち早く、しかも安く製品化できるのは、かなりのメリットだよね

MIMIC

市場で購入した既製品のネームを変えて輸入する「 拾い 」ではなかったのですね

日下部

俺らがやってたのは、パターンをこっちで用意して、市場で購入した生地を工場へ持ち込んで「 こういう感じに作ってください 」って依頼するやり方だったね

MIMIC

会社では服作りを学んで、並行してバンド活動。そこからブランドはどのように始まったのですか?

日下部

当時 ( 92年、93年ぐらい ) 遊びに行ってたロンナイで DEVILOCK の遠藤とか、SHAKKAZOMBIE ( シャカゾンビ ) の井口くん( =IGNITION MAN の別名を持つヒデボウイ氏のこと )とか、当時ロンナイで DJ やってたアキラくんと仲良くなって。

で、自然とヒカルさん( =BOUNTYHUNTER のディレクター)や大貫さんとも仲良くなって、’95年にヒカルさんが BOUNTYHUNTER をオープンさせるんだけど、そこにたむろするようになるんだよね。そこで横のつながりができるようになり、ブランドを始めるきっかけになっていった感じかな

MIMIC

だから DEVILOCK 、MACKDADDY、EMPIRE といった後に恵比寿系と呼ばれるブランドたちは BOUNTYHUNTER からスタートしたわけですね

日下部

俺も MACKDADDY を始める前は、手作りでリストバンドを製作していた時期があったんだよ。で、周りのバンドマンたちがそのリストバンドを気に入ってくれて、みんなから「 ちょうだい、ちょうだい 」と言われるようになって。それを見たヒカルさんが、「 日下部、それいいじゃん!バウンティーで置こうよ 」って言ってくれたのが、ブランド始動の原点なんだよね。手作りだったから、1回に10本とか15本しか納品できなかったんだけど、それが BOUNTYHUNTER へコンスタントに通うきっかけにもなって。

当時、BOUNTYHUNTER の上には 7STARS DESIGN ( セブンスターズデザイン ) が事務所を構えていたし、HECTIC ( ヘクティク ) の真柄さん、EZ ( =TILT ) くんといった原宿の人たちとも仲良くさせてもらったね。

そうしたなかで、遠藤が DEVILOCK を始めるんだけど、俺も服飾の学校を卒業して、ずっと「 自分でブランドをやりたい 」と思っていたから、ヒカルさんに相談して MACKDADDY を BOUNTYHUNTER に置かせてもらうようになるんだよね。

MIMIC

そのリストバンドは MACKDADDY としてではなく?

日下部

そう。ブランド名も何もなく、ただ単に個人として作っていたもの。当時のリストバンドって、黒のレザーにスタッズを打ったものしかなかったんだけど、俺は浅草橋でグレーやベージュといった珍しい色のレザーを買って作っていたんだよね。バンドやってる人たちはみんな、Tシャツに短パンにスニーカーというシンプルな格好だから、黒じゃない、アクセントになる色味のリストバンドが良かったみたい

こちらは当時のリストバンドでグレーのレザーにスタッズを打ち込んだもの。ベージュっぽくも見える絶妙な色合いを選ぶあたり、日下部さんのこだわりを感じます

MIMIC

会社に勤めながら製作されていたのですか?

日下部

いや、この頃には会社も辞めてて、リストバンド作りながら1年間くらい細々と暮らしてた(笑)

MIMIC

収入はリストバンド1本ですか?

日下部

いや、DJ もあるし、バンドでツアーにも行ってたんで、不思議と生活できたんだよね(笑)。 50過ぎた今でもあんま変わんないんだけど(笑)

93年には雷矢を結成。こちらは貴重な 《 あんとき 》 のフライヤーと1st 7インチシングル

雑誌『 warp 』に掲載され、バンドムーブメントともリンクし、ブレイクのきっかけを掴む

MIMIC

そうした経緯を経て MACKDADDY が始動することになるわけですね

日下部

’97年、俺が27歳のときだね

MIMIC

お一人で?

日下部

そう。最初のブランドネームやグラフィックの制作は、先輩の店で働いていた友人に手伝ってもらったけどね

MIMIC

セールスは最初から好調だったのですか?

日下部

いや、全然だよ(笑)。BOUNTYHUNTER で取り扱ってもらってたので、買ってくれるお客さんは少しはいたんだけど、それ以上の価値を創り出すのがすごく大変で。だから「 まずは雑誌で露出しないと 」と思って、いろんな知り合いにお願いしたんだけど、なかなか載せてもらえず……。

でも『 warp MAGAZINE ( ワープマガジン ) 』の大野さんだけが「 いいじゃん、面白そうじゃん!」って言って載せてくれたんだよね。そこからすごい問い合わせが来るようになったね

MIMIC

それはブランドを始めて、どれくらい経った頃ですか?

日下部

半年くらいだったかな

MIMIC

そこから一気に人気が出て?

日下部

いや、まだまだ。warp に取り上げてもらえるようになって少しずつ認知度が高まって、最初はダンボール1箱、2箱分だった出荷量がだんだん増えていった感じ。で、’98年くらいに家で作業ができなくなって、初めて事務所を借りることになったんだよね

MIMIC

どこに借りたのですか?

日下部

青山通りにあったこどもの城の裏あたり。当時は何もない場所で、ボストンテーラーが入っていたビルの上だね。そのときは X-LARGE ( エクストララージ ) で働いてた toe の山ちゃん( =山嵜廣和氏 )が内装の仕事をしてたので、DOVE でドラム叩いてたダイロクやニイクン、俺の4人で壁紙を剥がしたりして、内装を手がけたんだよね

MIMIC

1年で事務所とは順調に伸びていますね

日下部

やっぱり、warp のおかげだよね。warp に載ってから「 卸させてください 」という問い合わせがすごい増えたから。それまでは BOUNTYHUNTER で売れるぐらいの量だったので

MIMIC

warp から AIR JAM ( エアジャム ) に代表されるバンドシーンが発信されていきますが、ちょうどそのくらいのタイミングになりますよね?

日下部

ほぼ同時だったよね。日本でいわゆるメロコアっていう音楽が流行る前に NOFX や Bad Religion といったアメリカのメロコアが俺らは大好きだったのよ。で、その後に俺の認識ではハイスタ( =Hi-STANDARD )が来て。もちろん、その前にコークヘッドなんかのミクスチャーの流れがあって、その後にニュースクールとしてヌンチャクや Switch Style が出てきたのかな

MIMIC

自分たちのバンドTの延長線上でブランドをスタートさせるみたいな流れも後に生まれてきますよね

日下部

確かに、それまでは業者にお願いして作ってもらっていたTシャツを自分たちで手がけるという流れはあったよね。ただ、俺は服飾の専門学校を出ていることもあって、もう少し本格的にやりたいと思っていたけど

MIMIC

ミロスやロンドンナイトで仲良くされていた友人の中で、一番最初にブランドを始めたのは遠藤さんですか?

日下部

遠藤がデビロックをやる前に、WHOEVER ( フーエバー ) があったね。WHOEVER をやってたヒロ兄は、当時からすごいイケてたんだよね。ブランドを始める前から、 HR をサンプリングしたTシャツを作ったりしてたんだけど、それがめっちゃカッコ良かったのよ。

あとは、カズさん( =KAZZROCK氏 )がブランドをやっていたから、Tシャツにプリントするようなスタイルにはすごい影響を受けたね。それは俺だけじゃなくて、多分、遠藤なんかもそうだろうし

当時のシーンで圧倒的な人気を誇ったバンド、ブラフマンのメンバーがフェイバリット・ブランドを紹介している『 Ollie 』のバックナンバーより。MACKDADDY や EMPIRE のほか、WHOEVER や REVOLVER などが紹介されている / 出典:Ollie

MIMIC

bootlegbooth ( ブートレグブース ) もブランドの始動は早かったですよね?

bootlegbooth|恵比寿系の先駆け!古豪ブランド、ブートレグブース

日下部

そうだね。俺らよりも数年早かったんじゃないかな。光( =デザイナーの大谷光氏 ) はもともとロカビリー好きの横浜出身だから、俺らとは微妙にルーツが違うんだけど、WHOEVER のテツさんとは昔からつながっていて。明治通りのビルの中にあった bootlegbooth のお店に行くと、テツさんやヒロ兄やカズさんがいて BOUNTYHUNTER とはまた違うコミュニティが形成されていたね

MIMIC

では、順番的には WHOEVER や bootlegbooth が先にあって、次に DEVILOCK ができて、その次に MACKDADDY と EMPIRE ができたと。SWAGGER はその後ですかね?

日下部

そうかな。EMPIRE も MACKDADDY と同じ’97年にできて、その2年後に SWAGGER が始まっている

“恵比寿系”の名前の由来となったハイト誕生秘話とハイト発の独自スタイルのルーツ

MIMIC

そして満を持して’99年に恵比寿に HEIGHT がオープンします

日下部

その頃には、BOUNTYHUNTER の店内が MACKDADDY と EMPIRE の服で占められるようになっちゃって。タカと「 この状況は申し訳ないよね 」ということで、ヒカルさんに自分たちのお店を出店したいと相談させてもらったら、ヒカルさんも快く送り出していただき「 今までありがとうございました 」という形で卒業させてもらったんだよね

MIMIC

恵比寿を選んだのは、遠藤さんのお店があったからですか?

日下部

って、思うでしょ? 全然違うんだよ(笑)。最初は俺もタカも原宿に店を出したかったの。でも俺らの資金では全然無理で、明治通りをどんどん渋谷方面に下っていって、キャットストリートを越えても無理で、さらに渋谷駅を越えて、並木橋まで行ってもまだまだ無理だってなって(笑)。

それでたどり着いたのが恵比寿。ここまで来たらどうにかできそうだったんだけど、それでも1階の路面は無理で、唯一借りれたのが2階という(笑)

MIMIC

奇しくも後に恵比寿系と呼ばれるブランドの聖地は、偶然の成り行きから生まれたんですね(笑)

日下部

そうなんだよ(笑)

MIMIC

遠藤さんも同じような理由で恵比寿だったんですかね?

日下部

それもあったんじゃない?店があったのも5階だったし。当時の恵比寿って何にもなかったからね。土日になると人がいなくなっちゃうんだから(笑)

MIMIC

GARNI ( ガルニ ) はもうありましたか?

日下部

うん、ちょっと前にできていた

MIMIC

HEIGHT は MACKDADDY、EMPIRE、SWAGGER のヘッドショップとしてオープンしたわけですよね?

日下部

そう。あと、レディースブランドでティアラというのがあって。Manhattan Clothes&Shoe ( マンハッタンクローズアンドシューズ ) で働いていた女の子が始めたブランドだったんだけど、その子にも声をかけて「 初めてお店やブランドをやります 」っていう初心者たちで店を開いたんだよね。

俺の中では、あまり知らない人と仕事をしたくないという思いがあったので、内装を手がけてくれたのも事務所と同じ toe の山ちゃんだし。

それと、これは今だから言える話なんだけど SWAGGER が始まったときに実は別のところからも声をかけられていたらしくて、二人はどっちと一緒にやるか結構考えてくれたらしいんだよね。最終的には井口くんが「 最初に声をかけてくれたから 」という理由でオオスミを説得して、HEIGHT を選んでくれたという話を後になってから聞かせてもらったね

MIMIC

井口さんとは昔から仲が良かったのですか?

日下部

ミロスで遊んでるときが出会いなんだけど、彼がヒップホップにどっぷりハマっていた頃は、俺らとも接点がなくなった時期があり。でも、恵比寿のミルクでやった ‎AIR JAM ’98の前夜祭か何かに SHAKKAZOMBIE が出演することになって、久々にみんなで盛り上がって集まることができたんだよね。そこからまた距離が縮まって仲良くなっていったね

MIMIC

HEIGHT はオープンしたときから行列ができるなど、話題性も抜群でしたよね

日下部

やっている自分たちはあまり実感なかったけど、売り上げがすごい伸びていったのは確かだね

MIMIC

どのブランドも満遍なく売れていたのですか? それとも特定のブランドが牽引していたのですか?

日下部

満遍なくだね。MACKDADDY と EMPIRE は、もともと BOUNTYHUNTER に置いてもらっていたから知名度があったし、SWAGGER はシャカが作っていることもあり、最初から注目度が高かったので3ブランドがいい感じで売れたね

MIMIC

話せるようでしたら教えてもらいたいのですが、HEIGHT の月商ってマックスどれぐらいだったのですか?

日下部

え〜、書かない(笑)? 売ってたときで●千万円くらいかな。お店単体で年間●億とかあったからね

MIMIC

すごっ〜!! ハンパない坪効率!さらに卸しもあったわけですよね?

日下部

そう。でも、もともと友だちのブランドなので、取り扱い手数料をほとんど取っていなかったし、なんなら最初は取るのを止めようとしてたのね。でも会計士さんから「 それはダメだ 」と注意されたので、少しだけいただくことに。お金儲けがしたいというよりも、友だちとみんなで盛り上がりたいという思いの方が強かったね

MIMIC

買取じゃなく委託取引とはいえ、ブランド側にとっては、それはありがたいことですね

日下部

何かのときに井口くんが「 あの当時、大して手数料も取らずにあれだけの金額を売ってくれたのはすごく助かってた 」と言ってくれたことがあったんだけど、それはすごい嬉しかったね

MIMIC

初期の HEIGHT ってリップストップのナイロンジャケットとか、ドローコード付きのナイロンパンツとか、グレー系のナイロンアイテムを中心とした着こなしのイメージが強いのですが、あのスタイルって誰発信だったのですか?

日下部

どうなんだろう、タカかもしれないね。タカはね、昔から本当にシャレてんだよ。ヒップホップサイドからバンドへ来た人間だったので、俺らとは選ぶアイテムがちょっと違うところがあったけど、それがすごい良かったよね

“裏原の次”のムーブメントを起こした当事者として、当時の裏原をどのように見ていたのか?

MIMIC

ちなみに、先ほど HEIGHT を始めたときに、友だちみんなで盛り上がっていきたかったという話がありましたが、当初から「 自分たち発信のムーブメントを作っていきたい 」みたいな気概をお持ちだったんでしょうか? もっと言うと“ポスト裏原”を目指した部分があったのかどうかという点なのですが

日下部

いや、それはないと思うよ。本心を言えば、俺はもっと裏原の人たちと仲良くしたいと思っていたくらいだから。向こうは5年も10年も僕らよりアドバンテージがあるわけだし、裏原のオリジネイターの人たちに対しては今でもリスペクトしかない

MIMIC

当時、雑誌を制作して情報を発信する立場にいたボクらからすると、恵比寿系と言われるシーンが出てきたとき「 次のムーブメントが来たな 」って感じさせるところがあったんです。なので、実際にそのムーブメントを作られた方たちにも「 次の時代を作りたい 」みたいな思いがあったのか知りたく

日下部

俺はなかったな。俺らからすると、その裏原系と恵比寿系って何?って思ってた節があったから(笑)

MIMIC

裏原が定番というか、裏ではなく表、メインストリームになっていく最中に裏原とは違う、恵比寿という場所からバンドとリンクした新しいムーブメントが生まれたことで、当然、ストリート誌はそのムーブメントに飛びつく。そして編集はある意味でまとめることでもあるので裏原・恵比寿と括り、それがカウンター的な見え方に映ったのかもしれませんね。

クラブが背景にある裏原系に対して、ライブハウスを背景に持つ恵比寿系という構図で、《 あんとき 》のストリートキッズはファッションスタイルの好き嫌いというより、音楽的背景によって「 そっち着なきゃ 」とか「 そっち着ちゃダメ 」みたいな暗黙の了解を感じていたでしょうし

日下部

俺は真柄さんと遊べて楽しいなっていう方だったんだけどね (笑)

MIMIC

これは今だからこそお聞きできる質問なのですが、恵比寿系の方たちって裏原の影響を微塵も感じさせないところがあったのですが、実際はどうだったのですか?

日下部

確かにあまり影響をモロ受けている様子は見せずに、ちょっと気取ってたかもしれない(笑)。でも、昔からずっと「 ラストオージー 」を見てるわけだし、「 ラストオージー 」が終わってからも違う雑誌で「 ヒロシさんは何に注目しているだろう 」ってチェックしてたよ

MIMIC

それは宝島を読んでいた学生時代はもちろん、MACKDADDY を始めてからもですよね?

日下部

もちろん、もちろん。裏原と言っても、徐々に裾野が広がり、いろんな人が出てくるけど、オリジネイターと言われるような人たちにはリスペクトしかないよね。特に俺の中では、真柄さんの存在が大きかったな。’00年頃には、アゲハで一緒に DJ もやらせてもらってたし。真柄さんがヒップホップからレゲエまで幅が広がってくのを見て、俺らもレゲエに行きたいと思ったし

MIMIC

真柄さんとの接点は BOUNTYHUNTER ですよね

日下部

そう最初は。真柄さんと BOUNTYHUNTER のタカくんが仲良かったのよ。それで真柄さんがハーレムで DJ やってたときにタカくんが遊びに行くんで、俺もそこにくっついて行くみたいな。洋服はもちろん、音楽や DJ に関しても、すごい影響を受けた。なんなら「 真柄さんになりたい!」っていつも思ってたもん(笑)

MIMIC

その気持ちはよく分かります。真柄さんのお話は他の方からもよく出るのですが、絶賛しかないですよね。本人もあまりメディアに出る方じゃないし、インタビューで多くを語る方でもないので、周りの方の証言によって、その功績をデジタルに残していかないとって勝手に感じています (笑) 。

それとこれは、思い込みかもしれないのですが、裏原系ってモテの要素を感じさせないというか表に出さないのに対し、恵比寿系って日下部さんを筆頭にモテを大々的にアピールするというか、隠していないように感じるんですね。日下部さん的にはその違いって感じますか?

日下部

どうなんだろうね。俺個人の話で言えば、基本、女の子が好きってのはあるよ。結婚してるわけでもないから、特に隠す必要もないしね

MIMIC

《 あんとき 》の女子ウケ度は、恵比寿系の方が高かったように思うんですよね。カワイイ女の子を連れていたように思うし、日下部さんたち作り手の趣向がどこかに滲み出ていたのかなと思いまして(笑)

日下部

無意識に入っていたんだろうね(笑)。でも、バックボーンの話で言うと、俺らはバンドの人たちだったという違いはあるかもしれないね

MIMIC

確かにそこは大きいと思うんですよね。事務所で MAC に向かって黙々とデザインして人を魅了していく表現方法と、ステージでスポットライトを浴びながら人を魅了していく表現方法の違いと言いますか。特に女の子は、その辺の違いに敏感な気がするんですよね

日下部

言われるまで気づいたことなかったな。でも、確かにステージに上がると「 みんな見てる〜 」って今でも女の子にアピールしてるわ(笑)

MIMIC

爆笑

マックダディーの飛躍を支えた地道な営業手法と、友人である前澤友作氏が立ち上げた ZOZO の躍進

MIMIC

話を再び MACKDADDY に戻すのですが、その後、HEIGHT は恵比寿から原宿に移転します

日下部

そうだね。どこかで「 原宿でやりたいな 」とずっと思ってたわけ。希望して恵比寿にお店を開いたわけじゃないからね(笑)

MIMIC

その反動からか、半端ないデカさのお店でしたよね。場所は、famouz ( フェイマス ) の跡地で

移転後の HEIGHT。地下に広がる広大な空間が当時の人気を物語っている / 出典:samurai

日下部

広かったんだけど、地下だったから、坪単価が安かったんだよね。自分たちの中では、大きなスペースの中でストリートブランドをキレイに見せるようなお店をやりたくて

MIMIC

並行してこの頃からサウンドクルーとして MACKDADDY SOUND も始動されますよね

日下部

そう KINOO がうちの会社に入ってからだね。お店を原宿に移す前に、事務所を原宿へ移転させたんだけど、始めたのはその頃だったと思う

MIMIC

あの一棟貸しのビルですよね

日下部

お店の調子がだんだん良くなってきて、恵比寿に倉庫として借りていたビルがあり、そこでもスタッフが何人か働いていたんだよね。それらを一つにまとめようっていう話になって、原宿のビルに引っ越した感じ

MIMIC

その頃には何名ぐらいいたのですか?

日下部

事務所だけでも20人ぐらいいたと思う

MIMIC

その頃がブランドとして最盛期ですか?

日下部

そうかな? 原宿にお店が移ってからも良かったんだけど、駅から遠かった事もあり徐々に伸び悩み始めたの。この頃にはお店の売上よりも卸しの方が大きくなっていたね。ちょうど ZOZO も始まったくらいだったし

MIMIC

MACKDADDY って地方をしっかり回って卸先を開拓していたので、全国津々浦々のショップ情報をお持ちでした。ボクが MAD FOOT!( マッドフット! ) 時代に取扱店を探している際にも何度も情報をいただきましたが ( =バティさん、ありがとうございます! )、その際に営業がしっかり機能している会社だなと感じて。

雑誌時代に多くのブランドを見てきましたが、組織としてきちんとビジネスしているブランドが少なかったので大変驚きました

日下部

あの当時、地方のいろんなショップから「 うちでも取り扱わせてください 」という問い合わせをいただいたんだけど、会社概要やお店の写真を見ただけでは、実際どんなお店かわからなくて。それを見極めるためにも、地方回りは必要だったんだよね。それに俺らとしては「 裏原ブランドを取り扱っているお店にも置いてほしいと 」いう思いも強かったから、それには新規開拓も必要だったしね

MIMIC

それは会社員時代の経験が活かされているのですか?

日下部

UP START は、卸先の数が半端じゃないのよ。その経験があるから、俺らも「 まだまだやれることはあるな 」と思っていた。特に卸しはお店のように在庫を抱える必要がないから、リスクを減らせるでしょ。なので展示会にも力を入れて、卸しの割合をできるだけ増やそうと頑張っていたね

MIMIC

その実現のために、どんな戦略を取ったのですか?

日下部

卸し先を増やすんじゃなくて、一つひとつの卸先を太くする営業活動をしていた。どれだけうちをメインにしてもらえるかっていう

MIMIC

確かにセブンスターズが作成した豪華なフリーペーパー magnet など、ブランド発信で卸先に販促物を配っていました。まだまだブームの最中で置いておけば売れる状態でもあったと思うのですが、売るための施策にちゃんと取り組んでいるストリートブランドは新鮮でした


不定期に MACKDADDY が発行していたフリーペーパー magnet 。7STARS DESIGN がデザインを担当し、初回のこの号では内藤さんがカメラを担当した / 出典:7STARS DESIGN 10周年記念ムック

日下部

例えば、展示会のときも、卸先の人たちに朝イチから来てもらって、数時間かけてアイテムごとのスタイリングを勉強してもらって。この洋服はこういうコーディネートにしてほしいですってご案内をして。

あんまりこういう言い方は良くないかもしれないけど、卸先によって販売力の差がすごいあるんだよね。だから、それを底上げするために接客材料を渡せればと思ったわけ

MIMIC

卸先は展示会で学んだことを生かして、お客さんに「 こういう組み合わせはどうですか? 」とブランドの意向にそった提案ができるようになるのは良いですね。最低限そのベースがあり、販売力や提案力があればその情報を元に、また違った提案もできるようになるだろうし

日下部

でも、今ではあまりに手厚くやりすぎちゃったことを反省しているんだよね。親切にコーディネート表まで作って卸先さんに渡していたんだけど、一部のお店ではそれを直接お客さんに見せて「 はい、受注会、受注会 」って、何も伝わらない簡略化したやり方を取るようになってしまって……。あんだけ時間をかけて説明したのは、なんだったんだろうって

MIMIC

展示会の開催もすごく早かったですよね?

日下部

そうだね。いわゆる恵比寿系って言われるブランドは、最初の方から展示会をしていたよね

MIMIC

ZOZO での取り扱いも非常に早かったです。これは START TODAY の出自にも関係しますが、裏原系ブランドが取り扱われるようになったのは、恵比寿系のずっと後でした

日下部

それまで友作( = ZOZO の創業者として知られる前澤友作氏。Switch Style というハードコア・パンクバンドのメンバーだったため、当時から日下部さんたちと仲が良かった)は『START TODAY ( スタートトゥデイ ) 』っていうファンジンを作っていて、そのファンジンの中でバンドTやレコード / CDを通販していたんだけど、あるとき、その延長で「 インターネットで物を売る 」って言いはじめて、DEVILOCK ・ MACKDADDY ・ EMPIRE と、あと何ブランドかを扱う通販サイトを始めたんだよね

MIMIC

EPROZE ( イープローズ ) ですよね?

日下部

そうそう。今でも忘れないんだけど、友作が最初からとんでもない量を付けてきたんだよね。俺らはネットで服が売れるなんて微塵も思ってもいないから「 ちょっと、一回落ち着けよ 」って(笑)。( 当時は取引条件が買取だったので ) 半分くらいの量に減らして「 一回、消化率を見ようよ 」って話になったんだけど、半年後に担当者が「 日下部さん、消化率 97%でした!」って。そっからだよね、ZOZO が飛躍していったのは。終いには、うちの展示会に真っ赤なフェラーリで来てたからね(笑)


ZOZO TOWNに改名する前のイープローズのサイトの様子 / 出典:T-DR Ltd.

起源は《あんときのストリート》!ブレイク前のZOZOTOWNを掘り起こせ!

MIMIC

あの時代のドメスブランドにとって、卸先への兼ね合いもあり ZOZO とどう向き合うかというのは、ひとつの試金石になりましたよね

日下部

やっぱり、地方の卸先からは “ZOZO叩き” みたいな声が上がってくるわけ。それまでは地方を回って卸先を新規開拓するのが営業活動だったけど、ZOZO の成功でその流れも大きく変わったよね。だって買取額のケタがひとつ違うんだもん。卸先全部の売上と ZOZO ひとつの売上が同じという時期もあったしね

MIMIC

しかも買取、さらには支払いが滞る心配もないですしね

日下部

今は回収のやり方もいっぱいあるけど、当時は自分たちでやらないといけなかったからね。ただの信用だけで締め支払いをやってたんだもん(笑)

クロージングブランドでありながらサウンドも持っていた MASTERPIECE と MACKDADDY

MIMIC

次のテーマは、2000年を過ぎたころに巻き起こるダンスホールのムーブメントにおける MACKDADDY についてなのですが。一緒にやられていた BINGO さんや KINOO さんはどういう経緯で入社されることになったのですか?

日下部

KINOO はもともとバンタンなの。俺とは科が違ったんだけど、そんなに大きい学校じゃないから自然と仲良くなって、イベントで一緒に DJ をしたり。で、何かのタイミングで原宿をぶらぶらしていたら偶然 KINOO に会って「 久しぶりじゃん! 」ってなって。

当時、KINOO は CHELSEA MOVEMENT ( チェルシー・ムーブメント ) というサウンドをやっていて、俺も地方で MACKDADDY のパーティーをよくやっていたから、「 イベントに出ない? 」ってチェルシーを誘って。そこから何回かイベントをやるうちに入社する流れになったんだよね。BINGO は KINOO の紹介で入社することになったんだよね


雑誌『 Ollie 』2002年10月号の MASTERPIECE ( マスターピース ) 特集内で、全国のサウンドを紹介する『 OUTLAWS BIBLE 』に掲載された MACKDADDY SOUND。メンバーは日下部さん、BINGOさん、MARTIN-KINOOさん / 出典:Ollie

MIMIC

やっぱりダブ録りには、かなりのお金を注ぎ込んだんですか?

日下部

ハイ、頑張りました(笑)。費用対効果で言ったら、こんなに非効率な仕事はないよね。趣味としては最高級だけど

MIMIC

それでも熱中してしまう魅力があるわけですね?

日下部

やっぱり DUB にしか無い VIBES 感じるものがあるんだよね。初めてジャマイカに行ったときは、CAPLETON が一番人気あったときだったんで、お願いしてダブを録らせてもらうことになったんだけど、スタジオに来たらもう街中が「 ウォー! 」ってなっちゃって(笑)。ちっちゃい子からオジサンオバサンまで熱狂しているのを見て、やっぱり、ジャマイカのスーパースターなんだと思ったね

MIMIC

向こうで大変だったエピソードはありますか?

日下部

Beenie Man のダブを録ったときに、俺の求めてる尺と Beenie Man がいつもやってる尺が合わなくて、すごい何回もやってもらったことかな。向こうは「 いや、これが俺のスタイルなんだよ 」って言うんだけど、このサビをこう歌ってほしいみたいなのがあったんで、結局はやってもらったんだけど。真柄さんも言ってたんだけど、ジャマイカでダブを録るのは人生の修行だって。待ち時間も多いし、みんな言うことも聞かないし(笑)

MIMIC

あの当時、MASTERPIECE と MACKDADDY はウェアブランドでありながら、サウンドも持っているという、かなり特殊なスタイルを貫いていましたよね

日下部

完全に真柄さんの影響だよね。加倉井くん( =MDP / マルヤマドーププロダクションズ )に誘ってもらい、アゲハで一緒に DJ やらせてもらうようになったのがすごく大きかったよね

ファッションブランドとしての地位を確立し、最盛を極めた MACKDADDY

MIMIC

’00年代も少し過ぎると、バンドシーンとの結びつきが強かった MACKDADDY もそのイメージとは切り離される形で、ファッションブランドとしての地位を確立していくようになります。さらなる人気を博すタイミングにもなったと思うのですが、そのように舵を切った理由は何だったんでしょうか?

日下部

あの当時、裏原系ブランドを取り扱っている地方のお店へ営業に行くと「 バンドの人たちがやっている warp 系ブランドでしょ?」って、下に見られることがよくあったんだよね。「 そんな言い方、warp にも失礼でしょ! 」って正直ムカついたんだけど、一方で「 そういう風に思われているのか 」という現実を突きつけられたところもあり。だから「 ちゃんとした洋服のブランドとしてやっていかなきゃ 」と思ったところはあったね

MIMIC

僕らは今でも地方へ遠征して、リサイクルショップなどで《 あんとき 》の洋服を掘り起こすのですが MACKDADDY と SWAGGER は絶対に発掘されるんですよ。その理由は「 生地がしっかりしていて、今でも着ることができる 」からだと思っていて、NITRAID もこれに当てはまります。屈強なオリジナルボディを採用したTシャツやスウェットは20年経った今、その違いが明確に現れているなぁと

日下部

うわー、理解されるまでにめちゃくちゃ時間かかったなー(笑)。確かに生地に関してはすごい良いものを使っていた


こちらは MIMIC の福岡遠征の際に発掘した、おそらく’00年代のものと思われる MACKDADDY のTシャツ。タグにも生地の屈強さを表すヘヴィーウェイトとオリジナルボディであることがわかるメイド・イン・ジャパンの文字が

ゲストピッカー、トラヴィスくん参戦! 《あんときのストリート》発掘ツアー vol.12 ラーメンは残さず食べましょう in 福岡 Part .2

MIMIC

服を作るうえでこだわっていたことや意識していたことはありますか?

日下部

やっぱり、みんな限られたお金の中で洋服を買ってくれるわけだから、できるだけ長く着てもらえる服作りを心がけていたね

MIMIC

それは素材にしても、デザインにしてもですか?

日下部

そう。デザインに関してはプラスで何かを補うのか、引き算の考えでシンプルに徹するのかは物によるけどね。素材に関しては、今ではユニクロなんかでも使われているメリノウールをいち早く使っていたし、Tシャツにも当時はまだ珍しかった超長綿っていうトップクラスの高級生地を使ってたんだよね、しかも厚手の

MIMIC

そうしたこだわりは、当時のお客さんには届いていましたか?

日下部

届いてないでしょ。だって、そこはもう作り手の想いでしかないから。みんながそれに共感してくれたらいいけど、全員が全員そういうわけじゃないし。だから、「 今でも着てます 」って言われると、すごい嬉しいんだよね。やってよかったなって

MIMIC

日下部さん的に MACKDADDY があれほど人気を博した理由は何だったと思いますか?

日下部

最初は、やっぱりバンドがバックボーンにあったというのが大きいよね。BACK DROP BOMB や BRAHMAN 、市川くん( =LOW IQ 01 )といった友人がライブで着てくれて、雑誌にも載るわけじゃない。そうすると、反響がすごいのよ! でも、それは戦略的にやってたというわけじゃなくて、友だちが遊びに来てくれたら、田舎にいる近所のおじさんみたいに「 これも持ってけよ! 」ってあげてただけなんだけどね(笑)


当時の『 Ollie 』のミクスチャースタイル特集で先陣を斬って紹介される LOW IQ 01 氏が、キーアイテムのメインに据える MACKDADDY のスウェットパーカー / 出典:Ollie


BOUNTYHUNTER のアイテムをオーバーサイズに着こなすというオリジナル・スタイルを確立してい たBACK DROP BOMB のタカ氏が MACKDADDY を紹介している当時の『 Ollie 』誌面 / 出典:Ollie

あるとき、お店の売上がすごいことになってて、スタッフに「 何かあったの? 」と尋ねたら、「 明日 AIR JAM っす 」って。AIR JAM の前日は全国からお客さんが来てくれて、すごい量が売れたので、やはりバンドの存在抜きには語れない部分があるよね

MIMIC

それってすごいことですよね。友だち同士のネットワークから生まれた裏原的なムーブメントが、全く違う場所で再び起こったわけですから

日下部

初めて雑誌に載せてくれた大野さんもそうだし、ブランドを始めるきっかけを与えてくれたヒカルさんもそうだし、みんな金銭じゃないところで協力してくれたのは大きかったよね

MIMIC

だからこそ、意図的に作られたものではなく、本物のムーブメントとして成ったのでしょうね

日下部

うん、そうだね。ただ恵比寿系っていうワードが出てきたとき「 なんだそれ? 」という違和感はあったね。俺らは全然受け入れてなかったと思う(笑)

MIMIC

warp はカルチャー的要素が大きい雑誌でしたが、後にファッション面に特化した雑誌『 samurai 』が創刊されます。samurai は恵比寿系ブランドを中心に構成された雑誌かと思うのですが

日下部

そうだね。ZOZO が俺らのブランドを取り扱ったことで飛躍したように、samurai が創刊されたことで、ブランドも samurai も一緒に盛り上がっていったところはあるよね


2004年に DEVILOCK が中心となったプロジェクト、Grand master で samurai の表紙を飾る。遠藤さん、日下部さん、ヒデボウイさん、エイジさん ( = GARINI )、TERUさん ( = AG )、大谷さん ( = bootlegbooth )、田原さん ( =MOBSTYLES ) と、恵比寿系と呼ばれたブランドのメンバーが勢揃い / 出典 : samurai

MIMIC

原宿のオフィスは、当時の盛況ぶりを象徴していました。地下にはバーカウンターもあったりして

日下部

これはまったくの余談なんだけど、あのオフィスで夜中の2時ぐらいまで働くことがよくあったんだけど、深夜の0時とか1時とか、下のフロアで女の子たちがキャッキャ騒ぐ声がしたのよ。「 みんなまだ働いてんだ 」と思って、黙々と自分の仕事をしていたんだけど、2時ぐらいになって下のフロアに降りて、そこにいた女の子に「 さっき、めちゃ盛り上がってたね 」って話しかけたら「 えっ、社長の部屋で盛り上がってたんじゃないんですか? 」って !? そのときはブランドも絶好調の頃だったから、今でもあれは座敷わらしだったんじゃないかと思ってんだよね(笑)


( 上 ) 日下部さんと KINOO さんの後ろにあるのが地下にあったバーカウンター / 出典 : samurai (下) 日下部さんの社長室は最上階にあった / 出典 : clips

MIMIC

日下部さんのもとへ幸運をもたらしに来ていたわけですね(笑)。でも、そうした繁栄はバンドブームで盛り上がったことがきっかけではありますが、その後は、先ほど話したような地道な営業活動も身を結んでいるのではないでしょうか?

日下部

どうなんだろう?

MIMIC

卸先のことをそこまで考えてくれるブランドって《 あんとき 》は多くなかったと思うんです。’00年過ぎって、まだブランド優位で、人気ブランドであれば卸してあげるぐらいの感覚だったブランドもあったんじゃないかと

日下部

あ、その感覚はなかったね。それよりも「 お互い、もっと良くなろうよ 」という思いの方が強くて、できれば卸先のお店の価値を上げたいぐらいの気持ちでやってた

MIMIC

当時の地方店は「 いかにいいブランドをセレクトで引っ張れるか 」が勝負どころで、顧客作りとか CRM といった営業・マーケティング活動に力を入れて取り組んでいたお店は少なかったと思うんです。もちろん今よりデジタル化が進んでおらず、ノウハウが出ていなかったり、安価なツールが浸透していなかったという側面はありますが。

なので「 お互いを底上げしていきましょう 」という日下部さんのような営業アプローチは、当時にしては相当珍しかったんじゃないかなって

日下部

何かそこに戦略があったわけじゃなくて、ただただがむしゃらにやっていただけのことなんだけどね

今だからこそ話せるブランド終焉までの道のり、そして求心力の源泉となった “クルー感”

MIMIC

ここからは言える範囲で構いません、最盛期を迎えた MACKDADDY が終焉へと向かうエピソードについてお聞かせ願えればと思うのですが。日下部さんが「 ブランドの勢いが少し衰えてきたな 」と実感するようなタイミングってありましたか

続きは切り取り線をなぞってね!

MACKDADDY 終焉のきっかけとなった出来事とは?

日下部

それまで MACKDADDY、EMPIRE、SWAGGER の3ブランドで頑張ってきた HEIGHT からSWAGGER が抜けることになったのが、ひとつのタイミングだったね。SWAGGER が抜けた分の売り上げを補えるものが見つからなくて……。それで BINGO と一緒にニューヨークやラスベガスへ行って、良さそうなブランドを引っ張って来ようってなって

MIMIC

それは買い付けではなく、卸しで取り扱うブランドを探しにですか?

日下部

両方だね。例えば MISHKA ( ミシカ ) は日本に代理店ができる前から向こうの展示会で見つけて取り扱っていたんだよね。だけど、当時の日本での知名度はまだまだだったので、SWAGGER が抜けた分を埋めるまでにはならなかった

MIMIC

SWAGGER は円満な形で卒業されていったのですか?

日下部

いやいや、俺はすごい駄々をこねたよ(笑)。「 やめてよ、無理!無理!無理!」って(笑)

MIMIC

自分たちでとっくに店を出していてもおかしくないくらい人気でしたもんね

日下部
うちもピークだったけど、あっちもピークだったと思う。もちろん抜ける事で売上が落ちて厳しいというのもあったんだけど、それよりもみんなでやれなくなる方がつらかったな。俺は昔から自分一人の店をやりたかったんじゃなくて、みんなで何かやりたいという気持ちの方が強かったから

MIMIC

かといって、無理強いすることもできないですもんね

日下部

SWAGGER は井口くんとオオスミの二人の会社だし、社員も働いているわけだから、しょうがないんだけどね

MIMIC

SWAGGER 的には、もっと全然前にお店は作れたけど、日下部さんの手前、言いづらい部分があったろうし、義理を通す上でもタイミングはかなり待ったんじゃないですかね。ボクらは「 え、このタイミングで出店するんだ 」って、遅すぎるくらいに感じましたから

日下部

まあ、そうだよね。井口くんがいきなり「 ちょっと話があるんだけど 」って来たときには、「 何、何、何!ヤダ、ヤダ! 」ってなったからね(笑)

MIMIC

この頃になると《 あんとき 》のストリートも成熟期を過ぎ、ストリート「 カルチャー 」から派生したブランドではなく、ストリート「 ファッション 」としてのブランドも氾濫しており

日下部

いわゆる恵比寿系ブームが起きると、そこに便乗するブランドもいっぱい出てきて。パイが決まってるのに強豪が増えるわけだから、必然的に商売が難しくなってくるよね。そこでうちらしいアドバンテージが提示できればよかったんだけど、正直、そこまで取り組めなかったことは敗因のひとつかなと思う

MIMIC

カルチャー発である以上、「 カッコいいか? 」という大前提が判断基準になり、やれば売上が上がると分かっていても、やれないことが多いと思います。一方で、ファッション文脈だったら 「 売れるか? 」で判断できちゃうので、MACKDADDY や SWAGGER でヒットしたアイテムをパクって、安価にリリースするようなことも平気でできます。

このような絶対譲れない一線が商売を邪魔するというのは、魅力でもあり、ブランドの存続という面では弱みにもなってしまうわけですよね

日下部

俺らは個人で出資して商売やっているから、大きな資本でそれをやられちゃうと勝ち目がないよね

MIMIC

その背景には、カルチャーを豊富に扱ってきた雑誌が、’00年以降はカルチャーをファッション面だけで扱うようになってしまったことも大きいんじゃないですかね。たとえぶっといバックボーンを持っていても、それが語られずモノをモノとしか紹介しなければ「 似たデザインを安く 」となるのは仕方ないというか

日下部

あんだけカルチャー寄りだった warp ですら、ファッション誌になったもんね

MIMIC

きっかけは『 smart 』でしたよね。「 ああいったカタログ形式の見せ方で部数が伸びるのなら、うちも追随しよう 」と他紙も一斉に真似してしまった。ボクらがいた Ollie もです。制作的に手間がかからず楽だったという面も後押ししました

日下部

そうなると、雑誌に載ったアイテムしか売れなくなっちゃうんだよね

MIMIC

かといって SNS の普及も進んでおらず、ブランドが自ら発信していく術も少なかったし、なにより雑誌が切り口を考えて、ブランドはそれに沿って取材を受けるという構図が長年続いていたので、ブランド側にネタをニュースに編集して自ら発信するスキルを持った人がまだまだ少ないという過渡期でもありました。

そういった様々な理由から、10年以上続いた《 あんとき 》のストリートのマーケットが徐々に縮小していく中で、09年に HEIGHT を閉めることになります。その後はどのように販売していたのですか?

日下部

パルコやラフォーレといった商業施設での期間限定ショップが多かったね

MIMIC

このときはセブンスターズが手がけたウェブサイトもあり、ECもスタートしていたと思うのですが、やはり厳しいジャッジが必要な場面も出てきますよね?

日下部

そうだね。お店のスタッフをクビにしたり、社員に辞めてもらうような雰囲気作りをして話しちゃったりとかね。工場に支払いを待ってもらったり、何かを担保に入れるっていうのもあったし。後半はもう何期赤字だったか分からないくらい、どうにかやりくりしていた感じだったね

MIMIC

最終的にブランドが終了したのはいつだったのですか?

日下部

2017年にブランド20周年を迎え、その2年後だったから、2019年だね。最終的にはスタッフも数名になって、SIG や BINGO、チビ太とか、その辺りの古株も辞めるってなって。後半の2年くらいは、ミロス時代から DJ やってた先輩が手伝ってくれてたんだけど、基本的には全部自分でやるようになってたね。

その間に本名さん ( =元 atmos 代表 ) に「 ちょっと助けてもらえないか 」って相談したら MACKDADDY をもう一度盛り上げるために新しい会社を作ろうとなって。それが2017年。その後、atmos でも商品を扱ってもらってたんだけど、それも長く続かず1年ぐらいで終わっちゃって、2019年に自己破産という流れだね

MIMIC

どのような部分でうまくいかなかったのですか?

日下部

本明さんたちはスピード感持って売れるヤバいアイテムが欲しかったんじゃないかな

MIMIC

もしも過去を振り返って、ある時点に戻ってやり直すことができるとしたら、どうしたいと思いますか?

日下部

あんま考えたことなかったけど、もし戻れるんだったら「 SWAGGER ちょっと待てよ! 」かな(笑)

MIMIC

大爆笑

日下部

もっと違う形があったんじゃないかって思うところはあるよね

MIMIC

もしかしたら、それは SWAGGER も同じことを思っているのかもしれませんね。「 もしもあのまま一緒にやってたら、もっと明るい未来があったんじゃないか 」と僕らも妄想してしまうところがありますし。

というのも、《 あんとき 》のボクらはブランドの垣根を超えて集まっている “クルー感” に憧れたところがあって、それはブランド単体では決して成し得なかった境地だと思うんです。かつての裏原にもそれがあったのですが、’00年代に入ると徐々になくなっていきます。それぞれがビジネス的に成功を収めたがゆえに、今まで寄り添っていたものが独り立ちして、逆に求心力を落としてしまうと言いますか……

日下部

まあ、難しいよね。結果論で言えばそうなんだけどね。でも、確かにクルーというか、チームというか、そういう形が残せたら良かったかもね。それはバンドとかも同じなんだよ。今まで一緒にやってたんだけど、何かがきっかけで急にやらなくなってしまったりとか。ファンの人たちからしたら、あのバンドとあのバンドが一緒にやっているという仲間意識が良かったりするんだろうけどさ

MIMIC

恵比寿系ブランドだけでなく、裏原系ブランドもそうなのですが、普通のファッションブランドと違って、洋服の求心力よりも作り手であるクリエイターの人たちに求心力があったと思うんですよね。人がすごく際立ってるシーンと言いますか

日下部

そうだね。それは裏原と呼ばれるブランドからスタートしたのかもしれないね。それ以前のDCブランドブームのときはなかったからね

MIMIC

そういった優れた人たちが集まるとクルーが生まれ、クルーがあるとシーンが生まれ、シーンがあるとそこに属したいという帰属意識が芽生えますよね。先ほどの AIR JAM の前日にTシャツがすごい売れたっていう話がまさにだと思うのですが、シーンがあることでその服を着て行ける場所ができるじゃないですか。ユニフォームみたいにみんなで着て、一体感を味わえるって体験価値もすごく高いし、雑誌や SNS での絵力も強いのでシーンの外にいる人も惹きつけやすいんじゃないかと。

一方で、一体感があるところに属さないアウトロウは一定数絶対に発生するので、そういった人たちがまたクルーを作り、新たなシーンを生み出していくという循環も生まれるだろうし

日下部

やっぱりさあ、裏原の人たちがみんなでTシャツやスタジャンを着ていたのはカッコ良かったもんね

MIMIC

「 自分もその仲間に加わりたい 」と思いますよね。もちろん恵比寿系と呼ばれた日下部さんたちもキッズからそのように見られていたと思いますし

日下部

そのシーンにいたからこそ、遠藤や井口くん、ヒカルさんとも仲良くなれて、洋服を作れるようになったのは間違いないよね。上京してバンドシーンに身を置けたのは、俺にとってすごい大事なことだとあらためて感じるよね

MIMIC

本日は MACKDADDY の成り立ちや日下部さんの思いなどが知れて、大変興味深いインタビューとなりました。貴重なお話、ありがとうございました!

日下部さん周辺の“クルー感”を収録した写真集『 CREW volume 1 』が発売中!

インタビューでも話にあがった、当時のキッズたちを魅了した日下部さんたち周辺の“クルー感”を収録した写真集 『 CREW volume 1 』が絶賛発売中です。本日のインタビューも写真集発売を記念したポップアップ会場で行わせていただきました!


CREW volume 1
¥2500

1990年代関東のバンドを中心に、当時の空気感を感じる貴重な写真など掲載された、まだまだアンダーグラウンドなバンドシーンとしてカルチャー色濃厚な1冊

【 掲載バンド 】
ABNORMALS ・ BACKDROPBOMB ・ BRAHMAN ・ COKEHEADHIPSTERS ・ envy ・ FIGHTFORYOURRIGHT ・ FRUITY ・ GRUBBY ・ HELLBENT ・ HUSKINGBEE ・ KEMURI ・ LOWIQICHI ・ ヌンチャク ・ POTSHOT ・ 雷矢 ・ REDHOTROCKINHOOD ・ RUDEBONES ・ SCAFULLKING ・ SOBUT ・ WRENCH ・ 山嵐

日下部さんが現在手がける KYRA の新作紹介

動画接客ツール ザッピング で投稿