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“裏原宿” 黎明期から人気を誇る insane 主宰者に聞く!知られざるブランドのルーツと《 あんとき 》のUKストリートシーン

《 あんときのストリート 》を発掘|MIMIC ( ミミック )

1991年に藤原ヒロシさんが雑誌『 CUTIE ( キューティー ) 』の連載「 HFA( Hiroshi Fujiwara Adjustment )」で紹介したことをきっかけに、日本のストリートシーンで大ブレイク。以来、黎明期の裏原宿シーンを代表するブランドとしてリスペクトされ続ける insane ( インセイン ) 。近年も BARNEYS NEWYORK ( バーニーズ ニューヨーク ) 、BEAMS ( ビームス ) 、the POOL aoyama ( ザ・プール青山 ) といった名だたるブランドやショップとコラボレーションを果たし、今年は uniform experiment ( ユニフォームエクスペリメント ) とのカプセルコレクションで話題を集めたのも記憶に新しいところではないでしょうか。

1991年1月号の「 HFA 」で初お披露目となった insane。藤原ヒロシさんによりイギリスのスケートマガジン『 RAD 』で発見されたのが紹介のきっかけ( 雑誌『 CUTIE 』より )

続く、1991年3月号の「 HFA 」でもリコメンドされる insane。ゲストのスチャダラパーや藤原ヒロシさんたちが、ロンTやショートパンツなどを着こなしている。一緒に紹介されているのは、ANARCHIC ADJUSTMENT ( アナーキック・アジャストメント ) や HAZE ( ヘイズ ) といったブランド( 雑誌『 CUTIE 』より )

そうしたなか、去る8月19日から9月10日までの約1ヶ月間、insane を手がけるジェド・ウェルズの個展が、東京の田端にある WISH LESS gallery ( ウィッシュレス ギャラリー ) で開催されました。会場では、ジェドが手がけた原画やシルクスクリーンポスターに加え、本展のためだけに制作されたオリジナルTシャツなども限定販売。しかも、初日に開催されたレセプションパーティーにはジェド本人も登場するとあって、開催期間中はコアなファンたちを中心にマニアックな賑わいを見せていました。

 

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初日のレセプション終了後に撮影された、お客さんたちとの集合カット( WISH LESSのインスタグラムより )

そこで MIMIC 編集部も「 こんなチャンスを逃すまい 」と、ご本人に取材を敢行。これまであまり知られていなかった insane のルーツや躍進の背景となった’90年代初頭のUKストリートシーンについて話を聞いてきました!

ジェドが強い影響を受けた黎明期のUKスケートシーンと insane 立ち上げの経緯

MIMIC

ジェドがスケートボードにのめり込んだきっかけから教えてください

ジェド・ウェルズ

ただただ楽しいから、それだけだよ。1977年に UK 中のティーンたちの間でスケートボードのムーブメントが巻き起こって、みんなスケートボードの自由さにハマってしまったのさ

MIMIC

1977年のイギリスというとパンク真っ只中ですよね?

ジェド・ウェルズ
そうだね。ピストルズやストラングラーズをはじめとするパンクロックのムーブメントと、テレビを通じて届けられたアメリカのスケートボードのムーブメントがちょうどこの年に融合し、一大ムーヴメントが巻き起こったんだよ

MIMIC

当時は、どのようにしてスケートボードの情報を入手していたのですか?

ジェド・ウェルズ
まだビデオが流通していなかったから雑誌だね

MIMIC

『 Thrasher Magazine ( スラッシャーマガジン ) 』などのアメリカの雑誌ですか?

ジェド・ウェルズ
いや、イギリスのスケートボードマガジンだよ。『 RAD 』が創刊される前に『 Skateboard ( スケートボード ) 』という雑誌が存在していて、みんなそれを読んでいたね

MIMIC

もうこのタイミングには、イギリスに独自のスケートシーンが存在していたのですね?

ジェド・ウェルズ
この頃には「 Harrow 」というスケートボードのパークが建設され、イギリス発のスモールカンパニーも設立されはじめていたね。でも、1979年に突如、このブームは去ってしまうんだ。当時、僕らは10歳くらいだったけど、お手本としていた10代後半くらいのスケーターたちがみんないなくなりシーンが消滅してしまった。それでも僕らはスケートボードをやめようとはせず、ずっと続けることになるんだけど

MIMIC

具体的にはどのように情報を収集し、活動を続けたのですか?

ジェド・ウェルズ

消滅してしまった僕らのスケートシーンの続きを、カリフォルニアのスケートシーンに見出すことにしたんだ。イギリス国内の専門誌も廃刊となって、情報源がなくなってしまったので、『 Thrasher Magazine ( スラッシャーマガジン ) 』を読みはじめるようになったのもこの頃だね。当時のイギリスでオリジナルのスケートカルチャーを生み出していたスケーターの中には、スティーブ・ダグラスたちのようにアメリカに渡ってスケートを続け、成功するスケーターもいた。のちに彼が NEW DEAL ( ニューディール ) を立ち上げたのは有名な話だろ。

’80年代にバートライダーとして活躍し、渡米後、1990年にアンディ・ハウエとポール・シュミットとともにスケートブランド、NEW DEAL を設立したスティーブ・ダグラス。スケーターとアーティストが自由にクリエイティビティを発揮できるブランド観をつくり上げ、新しいスケートカルチャーの流れをつくった( 画像出典:NEW DEAL )

もちろん、イギリス国内でスケートを続けて、成功したスケーターもいたよ。僕の友人のジェレミー・フォックスは Deathbox ( デスボックス ) というカンパニーを設立して、ヨーロッパ中でスケーターを発掘し、のちにルーン・グリフバーグやトム・ペニーといった優れたスケーターをアメリカへ引き連れて、スケートボードの勢力図を塗り替えたからね

Deathbox は、トム・ペニーやジェフ・ローリー、ルーン・グリフバーグといった優れたユーロライダーとともに活動拠点をカリフォルニアに移した際に、FLIP ( フリップ ) と改名。業界を激震させたチームビデオ『 Sorry 』の発売により、アメリカ中心主義だったスケートシーンの勢力図を一変させた

MIMIC

ちなみにスケートブームが去ってしまう以前に、当時のイギリスのシーンで中心的な役割を担っていたのは、どんな人たちだったのですか?

ジェド・ウェルズ

ロンドンブリッジの周辺に、放棄された倉庫が並ぶ汚いエリアがあったんだけど、そこの倉庫の一角をジャックして数人のスケーターたちが Benji Boards ( ベンジーボード ) というスケートカンパニーをスタートさせたんだ。この Benji Boards は、当時のロンドンのスケートシーンでデッキブランドとして大成功を収めたブランドで、多くのスケーターたちに強い影響を与えていた。当時のイギリスシーンで絶大な影響力を誇っていたジェレミー・ヘンダーソンやジョン・サブロスキー、カリフォルニアから来ていたトニー・アルバなどもこの界隈に集っていたね

1978 年に撮影された Benji Boards のプロモ映像では「 Harrow 」で滑るジョン・サブロスキーの姿が収められている( 出典:Youtube )

MIMIC

えっ!ジェレミー・ヘンダーソンって『 SHUT ( シャット ) 』設立にも関わっているという、あのニューヨークのレジェンドスケーターとして知られるジェレミー・ヘンダーソンですか?

ジェド・ウェルズ

そう。彼は ’70年代のイギリスのスケートシーンで最も影響力を持っていたスケーターだったんだ。のちにアメリカに渡って、’80年代後半からニューヨークのシーンに新しい風を吹かしたよね。

それと T. Rex のマーク・ボランが交通事故で亡くなった後、彼の奥さんであったジューン・チャイルドがイギリスでスケートブランドを運営していた子どもたちに金銭的な支援を行い、シーンの活性化に大きく貢献してくれたという話を最近聞いたよ。先の Benji Boards の立ち上げには、ジューン・チャイルドがシド・バレットの世話人であったこともあり、ピンク・フロイドが金銭的な支援をしていたという噂もあったね。

ちなみにこの辺の歴史は VANS ( ヴァンズ ) が8月18日からロンドンで開催していた「 LONDON CALLING! 」というトリビュートイベントでも紹介されているよ。イベントにはトニー・アルバとスティーヴ・ヴァン・ドーレンもゲスト出演したようだね

’70年代にイギリスを拠点に活動していたスケーターたちに敬意を表すために開催されたトリビュートイベント「 LONDON CALLING! 」。写真は VANS UK の公式ページから( 画像出典:VANS ) 

MIMIC

1979年にシーンが消滅してからは、しばらく低迷期が続くことになるのですか?

ジェド・ウェルズ

イギリスでは、1979年から1984年までの5年間をスケートの “暗黒時代” と呼んでいるんだ。その時代はお手本となる先輩スケーターたちも身近におらず、みんな手探りの状態のままスケートを続けていたんだ。当時僕が住んでいたワイト島( イギリスのイングランドの島 )では、僕が唯一のスケーターだったしね。『 Thrasher Magazine 』でカルフォルニアのスケートシーンの情報を入手しながら、わずかなスケート仲間たちと小さなイベントやコンテストを開催し、ZINE なんかを作ってお互いにコミュニケーションを図っていたんだ

MIMIC

『 Thrasher Magazine 』やスケートギアはどうやって手に入れたのですか?

ジェド・ウェルズ
サリー( イングランドの南東部に位置するカウンティ )にあったスケートボードショップから通信販売してもらっていた。新製品が発売されるとカタログを送ってくれてたので、それを見て、ギアや雑誌はもちろん、スラッシュやパンクの音源なども購入していたね

MIMIC

ジェドはのちに『 RAD 』の表紙を飾るほどのスケートの腕前だったようですが、当時、どこかのカンパニーからスポンサードされていたんですか?

ジェド・ウェルズ

のちに Deathbox がサポートしてくれたね

 

『 RAD 』の表紙を飾るジェド

MIMIC

それはプロライダーとして?

ジェド・ウェルズ

プロライダーの定義が曖昧だから表現が難しいけど、金銭的な支援を得ることはなかったよ。一時的なチームメンバーみたいな感じさ。当時のイギリスでシグネチャーボードを出していたのは、数人くらいしかいなかったからね。ただ、イギリスの本格的なスケートカンパニーである Deathbox からサポートを得ることは、アメリカのカンパニーから間接的なサポートを得るよりも、ずっと名誉なことだったんだ。

ちなみに僕が insane ( インセイン ) をスタートさせた当初は Deathbox がディストリビューターとして名乗り出てくれたんだ。Deathbox が FLIP と呼ばれるようになっていた 90 年代半ば、彼らと一緒にカリフォルニアに遊びに行ったことがあったんだけど、彼らは当時 Birdhouse distribution で働いていて、親切にも『インセイン』のプロデュースをオファーしてくれたんだ。僕はアメリカに移りたくなかったので、断ってしまうんだけど

MIMIC

そんな insane はどういった経緯から立ち上げることになったんですか?

ジェド・ウェルズ

insane は1984年にスタートすることになるんだけど、その当時、僕は生まれ故郷のワイト島でスケーターをしながら、考古学専門のイラストレーターとして働いていたんだ。もともと、クリエイティブな家庭環境の中で育ったこともあってか、自分でTシャツやトレーナーにイラストを描いて着ることが多かったんだけど、それがそのまま insane のブランドルーツになった感じだよ。それからシルクスクリーンを使っていろんなアイテムを作るようになって、ブランドが本格的に始動していったんだ

insane の初期のロゴ

MIMIC

商業的に立ち上げたというよりは、ご自身の趣味的な意味合いが強かったんですね

ジェド・ウェルズ

そう。しばらくすると、イギリスのスケーターたちの間でちょっとした話題となって、各地にあるスケートショップで insane を取り扱ってもらえるようになった。’80年代の後半には、僕が携わっていたスケート誌に広告を出稿したり、僕自身がスケーターとして注目を浴びたことで、『 RAD 』が積極的に記事にしてくれて、さらに人気が出ていった感じだね

『 RAD 』に掲載された insane の広告

MIMIC

ジェドが1988年にロンドンへ移り住んだのは、『 RAD 』でライターやイラストレーターとして働き出したのがきっかけと聞きましたが、どういった経緯で働くことになったのですか?

ジェド・ウェルズ
当時、僕はワイト島でスケートボードの ZINE を制作していたんだけど、『 RAD 』の編集長のティム・レイトンボイスにその ZINE を送って、見てもらったことがあったんだ。以前の『 RAD 』は、国内での BMX 人気を受けて、BMX 寄りの専門誌としてその地位を確立していたんだけど、ちょうどその頃から「 スケートボードのコンテンツをもっと増やそう 」と考えていたらしくて、タイミングよく「 よかったら、うちの雑誌で記事を作らない? 」と誘ってもらったんだ

MIMIC

『 RAD 』では、ANARCHIC ADJUSTMENT を手がけたニック・フィリップもエディトリアル・デザイナーとして働いていましたよね?

ジェド・ウェルズ
ニックは『 RAD 』が BMX に力を入れていた頃からデザイナーを務めていたね。ANARCHIC ADJUSTMENT も当初は、スケートやパンクをモチーフにしたものが多かったんじゃないかな

MIMIC

その後、insane は Slam City Skates ( スラムシティスケーツ ) で扱われるようになります

ジェド・ウェルズ
ロンドンに住み始めてからは、スケートボードやクラブ、レコードレーベルなどのサブカルチャーシーンの人々と交流するようになったんだ。その後、小売から卸売への拡大を検討していた Slam City Skates と Rough Trade のパートナーからオファーをもらいライセンス契約を結び、Slam City Skatesで販売することになったんだよ。ちなみに今も insane はいくつかのインディペンデントなお店で扱ってもらってるよ

MIMIC

ちょうどその頃には、アメリカでショーン・ステューシーが同じくボードカルチャーをバックボーンに Stussy ( ステューシー ) を設立して人気を博していましたが、彼から影響を受けたことはありましたか?

ジェド・ウェルズ

当時の僕は、スケートシーンのことやイギリスの一部のユースカルチャーにしか精通していなかったこともあって、insane を立ち上げた当初は Stussy の存在を知らなかったんだ。Slam City Skates の仕事をしていくなかで、ファッションカルチャーの人たちとの交流が生まれ、マイケル・コッペルマンやジェームズ・ルボンたちと知り合って Stussy の存在を知ることになっていくんだけど

マイケル・コッペルマン/1989年に自身のアパレルブランド、Gimmie Five ( ギミファイブ ) を設立し、その後、Stussy や SUPREME などの US ブランドをイギリスで展開した UK ストリートシーンのキーパーソン( 画像出典:gimme5 )

MIMIC

ジェームズ・ルボンって、’80年代にロンドンのユースカルチャーの拠点となった美容室、CUTS を創業した方ですよね?

ジェド・ウェルズ

そう。彼は CUTS を離れた後に映像の仕事に携わるようになっていて、Stussy UK を手がけていたマイケル・コッペルマンのために Stussy の映像も制作していたんだ。彼のオフィスは Slam City Skates のすぐ近くにあって、彼の兄であるマーク・ルボンが経営していた Crunch Productions ( クランチ プロダクション ) という制作会社も近くにあった。マークは’80年代初頭のロンドンのファッションシーンで一世を風靡したクリエイティブ集団「 BUFFALO ( バッファロー ) 」のメンバーだったこともあって、この Crunch Productions にはジュディ・ブレイムをはじめとするロンドンのファッションシーンのキーマンたちが多く出入りしていたんだ。僕にとってはここが、ファッションシーンの人たちとつながる社交場になっていたよ

ジェームズ・ルボン / パンク以降のロンドンのユースカルチャーシーンで中心的な役割を担った美容室「 CUTS」を創業。多くの熱狂的なファンを抱え、著名人たちもしばし訪れた。その様子は映画『 Steve, James and Cuts 』やマイケル・コッペルマンが発行元となった写真集『 CUTS 』にも収められている( 画像出典:INDEPENDENT )

ジュディ・ブレイム/イギリスのパンク・ファッション界の重鎮。『 HOUSE OF BEAUTY AND CULTURE 』のメンバーであると同時にレイペトリを中心としたクリエイティブ集団「 Buffalo 」のスタイリングに深く関わり、後世のストリート / モード両面に大きな影響を与えた( 画像出典:THE NEWYORK TIMES )

MIMIC

その当時、イギリスのスケーターとアメリカのスケーターを比較して、スタイルやファッションに違いを感じたりしましたか?

ジェド・ウェルズ

特に違いは感じなかったね。ただ、僕らイギリスのスケーターたちは単にアメリカのスケート文化を消費していたのではなく、イギリス独自のスケート文化を生み出していたんだ。先ほど話に挙がった ANARCHIC ADJUSTMENT なんかのブランドもそうした文化の中から生まれたものだと思っているよ

HOLMES や SILAS を立ち上げたソフィア・プランテラとの出会いと Slam City Skates を離れてからの活動

MIMIC

insane は Slam City Skatesで取り扱われるようになって、順調にブランドも成長していったのですか?

ジェド・ウェルズ
Slam City Skates とパートナーシップを結んだことで、ブランドマネージメントに専念することができ、ビスポークテイラーの Simon Collins とのカプセルコレクションをはじめ、さまざまなアイテムを作ることができるようになっていった。また Slam City Skates の本店の地下に Rough Trade ( ラフトレード ) があったことで、スケーターだけでなくアーティストや音楽ラバーたちからも注目を集めるようになったんだ

MIMIC

アーティストでは、例えば、どんな人たちが愛用してくれていたのですか?

ジェド・ウェルズ
The Shaman や Ned’s Atomic Dustbin、Therapy や Deee-Lite、Jesus Jones や EMF といったミュージシャンのほか、ロビン・ウィリアムズといったセレブリティーが購入してくれるようになったよ

MIMIC

ちなみに当時、insane はスケートブランドとして販売されていたんですか? それともアパレルブランドとして販売されていたんですか?

ジェド・ウェルズ
そのどちらでもなくて、僕自身はスケーターが手がけるアーティストブランドという立ち位置でブランドを運営していたね

MIMIC

当時シーンで目立っていたスケーターたちをスポンサードしていたのですか?

ジェド・ウェルズ

友人たちを中心に insane のアイテムを提供していたんだけど、特によく着てくれていたのは、現在は PALACE ( パレス ) のクルーで、自身でも The Trilogy Tapes というコアなレコードレーベルを手がけているウィリアム・バンクヘッドだね。1991年にリリースした『 Mouse Is Pulling The Key 』というビデオタイトルのクレジットを見てもらうと、当時サポートしていたスケーターをチェックできるよ

ウィリアム・バンクヘッド / Mo’Wax でヴィジュアル・ディレクターとして DJ Shadow や UNKLE などのメインビジュアルを手がけ、現在は PALACE にアートワークを提供したり、The Trilogy Tapes を運営するなど、UK ストリートシーンに強い影響力を持つキーパーソン。SKATE THING さんとともに C.E のを手がける TOBY FELTWELL ( トビー・フェルトウェル ) さんとは、Mo’Wax のレーベルメイトだったこともあり、C.E のパーティなどにもゲストDJとして招かれている( 画像出典:flickr )

MIMIC

日本では1991年に藤原ヒロシさんが雑誌『 CUTIE 』の連載で紹介したことでブレイクしたのですが、その様子はロンドンにいたジェドには、どのように映っていましたか?

ジェド・ウェルズ

ロンドンでの売り上げもそれなりにあったんだけど、ヒロシが雑誌で紹介してくれてからの日本での売り上げは桁違いだった。そのおかげでセントラル・セント・マーチンズで服飾を専攻していたソフィア・プランテラという優れたデザイナーと、当時 Rough Trade で働いていたラッセル・ウォーターマン( 営業担当 )をスタッフとして招き入れることができたんだ

ソフィア・プランテラ/ insane を経て、Slam City Skates でラッセル・ウォーターマンとともに HOLMES ( ホームズ ) を設立。その後、一世を風靡したストリートブランド、SILAS ( サイラス ) を立ち上げ、現在は Aries ( アリーズ ) というブランドのデザイナーを務める( 画像出典:SEVENSTORE )

MIMIC

ちなみに日本では、LONDIS ( ロンディス ) や EM ( エム ) といったセレクトショップで取り扱われたのが最初なのですが、どういった経緯で扱われるようになったかご存知ですか?

ジェド・ウェルズ
僕はその辺の経緯はまったく知らないんだ。当時、深い交流があったわけではないんだよ

MIMIC

ソフィアはラッセル・ウォーターマンとのちに HOLMES ( ホームズ ) や SILAS ( サイラス ) といった人気ブランドを立ち上げますが、当時からその才能には目を見張るものがあったのですか?

ジェド・ウェルズ
そうだね。特に彼女のカジュアルウエアに対する考え方に深い共感を覚えたね。insane での服作りでも、ソフトな生地を使用して、繊細なアートディテールを織り込んだワークウエアをつくったり、イタリア製の生地をとても革新的なカジュアルアイテムへと変化させるなど、とてもたくさんのアイデアを出してくれたよ

MIMIC

2人の新しいスタッフを迎え入れて以降の動きを教えていただけますか?

ジェド・ウェルズ
日本での人気や1992年の冬物のセールスが好調だったことを受けて、Slam City Skates はウエストロンドンに大きな倉庫を借りて Fresh Jive ( フレッシュジャイブ ) や ANARCHIC ADJUSTMENTといったブランドのディストリビューションを主業とするまでに会社が大きくなっていったんだ。でも、そのおかげで流通会社のような側面が強くなってしまい、翌年のコレクションの制作費は圧縮されて、過去のアイテムを再生産せざるを得ない状況になってしまった。それで僕はこれを機に、Slam City Skates を離れることにしたんだ

MIMIC

新しく入った2人と一緒に独立したのですか?

ジェド・ウェルズ

いや、離れたのは僕だけで学生時代の友人であるグラフィックデザイナーのアンディ・ホームズを含め、多くの友人は残ったよ。ソフィアも残ったけど、ばらくはTシャツを畳む業務だけだったようだね。その後、ソフィアはラッセルとともに革新的なブランド作りに集中して、多くの素晴らしいアーティストと共に Slam City Skates 内で HOLMS を立ち上げた。そして数年後、彼らは独立して SILAS を設立したんだ

最初期にリリースされた HOLMES のファーストTシャツ(左)と insane のオリジナルTシャツ

HOLMES のファーストコレクションが掲載された ZINE 兼カタログ

MIMIC

SILAS のキャラクターデザインを手がけたジェームス・ジャービスや、同じく UK のストリートシーンで人気を博したピート・ファウラーのポップな作風って、ジェドさんの影響を受けているのかなと思う部分もあるのですが、ご本人的にはいかがですか?

ジェド・ウェルズ

ジェームスは「 特に影響を受けてはいない 」と言っていたので何か影響を与えたということはないと思うけど、最近、一緒にエキシビションを開催したよ。彼は UK ブランドのコネクションやムーブメントを深く理解していて、すべてのクリエイティブな人々やブランドに様々な影響を与えているよね

MIMIC

SILAS で彼らが実現させたキャラクターのトイ化というのは、それよりもずっと前にジェドさんが insane で試みていますよね?

ジェド・ウェルズ

あの頃、僕が insane のキャラクターをぬいぐるみにして量産化しようとしたり、立体物を作って販売しようと考えたとき、周りからは「 スケートのアパレルメーカーがそんなモノを作っても売れない 」という冷ややかな目で見られていたんだ。その頃と比べると価値観が変化したのかもしれないけど、彼らがそれを成功させたのはスゴいと思うね

ジェドが量産を試みたサイのキャラクターのぬいぐるみ。残念ながら製品化はされず、カタログの表紙で使用されるのみとなった

MIMIC

Slam City Skates を離れてからは、どんな活動をしていたのですか?

ジェド・ウェルズ

Slam City Skates を離れてからは、ソーホーにあった FATBOY ( ファットボーイ ) という会社と一緒にコレクションを制作して、さまざまな展覧会でアイテムを発表していたね。’90年代半ばには、ボマ・ジャジャというスケート仲間と一緒にカムデンに「 Insane Skate Supplies 」というお店をオープンさせて、新しいデザイナーとコラボしたり、イギリス国内やヨーロッパへ商品の卸しをしていたんだ。Addict ( アディクト ) や Inner Circle ( インナーサークル ) や Raggy ( ラギー ) といったUKのスケーターブランドやストリートブランドの取り扱いなんかもスタートさせたね。

その中の1つ、CLOWN SKATEBOARDS ( クラウン スケートボード ) は、2000年にジェフ・ボードマンによって誕生したブランドなんだけど、ジェフは以前「 Insane Skate Supplies 」が取り扱う他のブランドに在籍していたため、90 年代後半にはよく一緒に集まってアイデアについて話し合っていたよ。また、店舗にはギャラリースペースも備えていたので、ラッセル・モーリスやマーク・フォースター、Etch やフェルナンド・エルビラといったアーティストがエキシビションを開催したよ

当時、ジェドが Insane Skate Supplies で取り扱っていた CLOWN SKATEBOARDS のロゴステッカー。グラフィックを担当したのは有名になる前のバンクシー

HEROIN SKATEBOARDS を手がけるアーティストの Mark Forster とジェドは、かつて「 Insane Skate Supplies 」で取り扱っていた「 SUPER HERO 」 というブランドを手掛けていた。SUPER HERO のロゴはジェドによるもので、こちらの90年代の日本代理店によるスウォッチには今や激レアとなった「 gorgeous 」やHowie B.の「 pussy foot 」と共にラインナップ

MIMIC

設立当初の Insane のコンセプトでもある “スケーターが手がけるアーティストブランド” という立ち位置を大切にしながら、ブランドの活動を続けたわけですね

ジェド・ウェルズ
そうだね。スケート面では「 insane Panda +」をショップのアイコンにして、スケートボードのハードウェアのプロデュースしたり、スケートイベントのオーガナイズをするなど、ロンドンのスケートカルチャーのハブ的な役割を果たすようになった。一方、アーティスト面では、Mo Wax や Rhythm King ( リズムキング ) といった音楽レーベルに所属するアーティストのためにアートワークを提供したりしたよ

MIMIC

その後イギリスでも、PALACE のようにスケートカルチャーをバックボーンにした、世界的に人気のあるブランドが誕生していますが、ジェドから見るとそうしたブランドはどのように映りますか?

ジェド・ウェルズ

insane も’90年代初頭から、PALACE や SUPREME が実践してきたような「 アートの感性をいかにしてプロダクトに取り入れるか 」というビジネスのあり方を模索してきたんだ。デザインを通じて、新しい世界を創造することは僕の長年の夢でもあるから、insane も insane らしいユニークなやり方で彼らのブランドのように大きく成長させていきたいと思っているよ。

それと PALACE については、ウィリアム・バンクヘッドをはじめ、彼らの発信するユーモアのセンスが非常に優れていることに感心するね。彼らは、僕が子どもの頃に Benji Boards に強い影響を受けたように、『 RAD 』やその周辺カルチャーに強い影響を受けているから、ANARCHIC ADJUSTMENT とコラボをしたりと、面白い試みにもたくさん挑戦しているしね

2020年にリリースされた PALACE と ANARCHIC ADJUSTMENT のコラボアイテム

MIMIC

では、最後にこれからの活動や目標について教えてもらえますか?

ジェド・ウェルズ

insane を始めた当時の想いは今も冷めることなく僕の中にあり続けていて、insane はこれからもまだまだ発展していけるブランドだと思っているよ。来年東京でUKのアーティストたちをフューチャーしたエキシビションをキュレーションする話などもあがっているんだ。これからもユニークな発想のもと、革新的なプロダクトを作り、たくさんの人たちとパートナーシップを結びながら insane の世界観を世界に発信していきたいね

MIMIC

本日はありがとうございました!

insane Japan サイト:www.insane-japan.com
insane UKサイト:www.insaneemporium.com

インスタグラム:
@gedwells
@insane_japan
@insane_emporium 

取材協力 / 資料提供:
outasight co.,ltd.   @outasight_works

取材協力:
WISH LESS gallery @wish_less

WISH LESS gallery で開催されていたジェドの作品を公開

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