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ZOZOTOWN ( ゾゾタウン ) の起源は《 あんとき 》のストリート!当時を知るスタッフたちが語る誕生&上場までの知られざるストーリー

《 あんときのストリート 》を発掘|MIMIC ( ミミック )

今年、創業25周年を迎えたファッションECサイトの雄、「 ZOZOTOWN ( ゾゾタウン ) 」 を運営する株式会社ZOZO。現在では取り扱い商品にコスメが加わり、老若男女問わず、さまざまな世代のオシャレ好きに幅広いアイテムを届けています。

一見するとストリートカルチャーとは無縁な会社に見えますが、創業期を振り返るとハードコアパンクバンドの輸入CDやレコードをカタログ通販し、その後はシーンのアーティストたちが手がけるアパレルブランドを取り扱うなど、《 あんとき 》のストリートに登場した新興勢力として、強い結びつきを持っていました。

そこで今回の MIMIC では、25周年という記念すべき節目に ZOZOTOWN の歴史を振り返る特別企画を敢行。その長い歴史の中でも、特に《 あんとき 》のストリートとつながりが強かった創業から上場までのステージにフォーカスし、当時を知る4人のスタッフとともに《 あんとき 》の ZOZOTOWN を振り返っていきます。

お話を聞かせていただいた4人


高野 悠人

ZOZOTOWN の黎明期にバイヤー、マーケティング、人事などを経験。ZOZOTOWN の前身となる EPROZE  では三代目店長も務めた。その後、アウトドアメーカーの Snow peak で新規事業の立ち上げなどに参画し、現在はフィッシングをテーマにしたアパレルブランド HANF(ハンフ) を手がける

 


西巻 拓自

’05年に株式会社スタートトゥデイ( 現・ZOZO )に物流担当のアルバイトとして入社。その後、経営企画室ディレクター、中国法人の総責任者、社長室室長、想像戦略室本部長などを歴任。’21年にラグジュアリーブランドやデザイナーズブランドに特化した「 ZOZOVILLA( ゾゾヴィラ ) 」 を立ち上げ、現在は同サービスのディレクターを務める

 


武藤 貴宣

’02年3月に株式会社スタートトゥデイに入社。アパレルブランドの新規営業を担当し、オリジナルセレクトショップ ZICUE 、DEDUE 、 HYBAA のバイヤーなどを経て、新規営業先開拓を担当。’07年6月には取締役就任し、ストア運営管理部とストア企画開発部を統括。’19年5月よりEC事業本部の管掌執行役員を務め、’22年2月に同社のファッションチアリーダーに就任

 


JUN WATANABE

輸入CDやレコードを取り扱っていた黎明期のスタートトゥデイで、通販カタログのグラフィックなどを担当。’03年に正式入社してからは ZOZOTOWN の立ち上げ時のデザインを担当し、以降13年にわたってクリエイティブの責任者を務める。その間、 JUN WATANABE 名義でファッションやホビーなどもデザイン。現在は自身のデザイン会社 HANAKUMO INC.  の代表を務めながら、津田沼にラジコンショップ BLOCKHEAD MOTORS ( ブロックヘッドモータース ) も手がけている

MIMIC

今年25周年という記念の年を迎えた ZOZOTOWN。振り返るには良いタイミングではないかということで我ら MIMIC では ZOZO の原点であるストリートシーンとのつながりが色濃かった時代を振り返っていきたいなと。

振り返るにあたって、ZOZO という会社をバンドの成長に例えると非常にリンクしていると感じていて、CDやレコードの輸入販売を始めた創業のタイミングがバンド結成。そしてインターネットでアパレルの販売を開始し、会社が飛躍するきっかけとなったタイミングがインディーズデビュー、取り扱いブランドがストリートからセレクトに拡大し、規模感も増した上場のタイミングがメジャーデビューに感じます。

というのも、前澤さんが宇宙旅行に挑む際に着ていた宇宙服を見ると ZOZO のインディーズ時代を支えた DEVILOCK ( デビロック ) 、そして上場時の象徴であり ZOZO の門出を大きく開いた UNITED ARROWS ( ユナイテッドアローズ ) のワッペンが胸に縫い付けられていました。

宇宙旅行という少年時代からの夢を叶える、この一世一代の大舞台に選んだのが、インディーズ時代の象徴である DEVILOCK と、メジャーデビューの象徴である UNITED ARROWS 。このことからもこの2つのブランドの参加が ZOZO のターニングポイントであり、今でもその感謝を忘れずに並々ならぬ想いをお持ちであることが容易に想像できます。

しかしながら、このワッペンに込められた美しすぎるそんな想いは、まだ誰にも紐解かれていません。であるならば《 あんとき 》のストリートを今に伝え続ける唯一のメディアとして、我々 MIMIC が後世に残しておかねば!という勝手な使命感に燃え、今回は ZOZO のインディーズ時代を知る皆様にお集まりいただきました。今日はよろしくお願いします!

ライブハウスで培った販売手法から、CD/レコードのカタログ販売に発展

高野

実は僕、今回の内容にあうと思って当時のTシャツを持ってきました。これは ZOZO の前身であるスタートトゥデイが’03年にオフィスを引っ越したタイミングで作ったもので、これを見るとオフィスの変遷が分かります。

まだ入社する前の JUN くんが、外注のデザイナーとしてデザインしてくれたのですが、’95~’98年までは( 千葉県の )鎌ヶ谷に事務所を構えていたんですよね

西巻

前澤さんの実家がオフィスだった時代ですよね

高野

その後は2年間だけ、東京にオフィスがあった時代があって。当時は電話通販がメインだったので、市外局番の「 03 」が欲しかったらしく。そして2000年に EPROZE ( イープローズ ) が立ち上がったタイミングで、千葉市美浜区の WBG ( ワールドビジネスガーデン ) に引っ越しすることになります。

僕の入社は’03年だったので、面接を受けたときは WBG の5階にあったベンチャーサポートフロアというところに会社がありました。広いワンフロアをパーテーションで細かく仕切られたスペースに、いろんな会社がぎゅうぎゅうに入っているようなところで「 えっ、こんなところに事務所兼倉庫があるの !? 」と驚いた記憶があります。でも、いざ入社というタイミングで28階に引っ越すことになり、そこで勤務していました

MIMIC

高野さんはどういう経緯で入社されることになったのですか?

高野

EPROZE に求人が出ていたんですよ。でも、勤務時間と勤務地しか記されておらず「 やる気を書いて応募ください 」というかなりざっくりしたもので、どういう待遇なのかわからないまま応募しました (笑)

武藤

で、俺はその面接で落とすんだけどね (笑)

高野

そうなんですよ (笑)。前澤さん以外のスタッフは全員、自分の入社に反対したらしくて。でも、前澤さんだけが「 ああいうやつが会社にいてもいい!」って入社させてくれたんです

西巻

人生変えてもらってるじゃないですか (笑)

MIMIC

Tシャツの下部にお名前が綴られていますが、こちらの12名が在籍されていた社員の方ですか?

高野

そうです。レコード部門とアパレル部門で働いていた人たちです

MIMIC

では、’98~’03年くらいは、10名くらいの社員数で運営されていたのですね

高野

僕が在籍していない時代に、一度、社員が増えたタイミングがあったみたいですよ。事実、僕は10番目の社員でしたけど、社員番号( 歴代の社員順の通し番号 )は28番でしたし

MIMIC

ということは、その前に事業拡大のフェーズがあったのですね?

高野

レコード事業が拡大して、忙しかったときがあったようです。でも、前澤さんはまだバンド活動と並行して会社を運営していたので、会社を空けることも多かったみたいで

MIMIC

それで前澤さんは事業に専念することに?

高野

そう聞いています

MIMIC

ちなみに今日集まっていただいたメンバーの中に、CDやレコードを販売していた黎明期を知っている方はいらっしゃいますか?

JUN

入社はしていませんが、僕はその頃から外注として仕事をしていました

MIMIC

初めてお仕事したのはいつですか?

JUN

はっきり覚えてはいないですが、’99年か’00年ぐらいだったと思います

MIMIC

創業から1-2年目くらいのタイミングですね

JUN

そうです、CDやレコードを販売していた時代ですね。カタログや電話、FAX なんかで注文を受け付けていました

MIMIC

JUNさんはカタログデザインを担当されていたのですか?

JUN

そうですね、通販カタログの主に表紙を担当していました

MIMIC

バンドもされていたとお聞きしました

JUN

はい。ですのでスタートトゥデイで取り扱っていた音楽が大好きでしたし、もちろん前澤さんがやっていた Switch Style( スイッチスタイル )も知っていました。ギター( =前澤さんの弟 )は同い年なのに CD も出して、ツアーもまわって、すげえなぁって。

でも、僕はデザイナーになろうと思ったので、バンドシーンからは少し離れていたんですけど、地元で仲の良かったバンドが前澤さんの耳にとまったみたいで、「 今度、スタートトゥデイから音源を出すことになったんだよ 」っていう連絡をもらって。しかも、その CD ジャケットのデザインをお願いしたいっていう話だったので、「 ぜひ、やらせてよ! 」って流れで、前澤さんとはレコーディングスタジオで初めてお会いすることになります

MIMIC

当時のスタートトゥデイはレーベルもやっていたのですか?

JUN

はい、スタートトゥデイ・レコードっていうレーベルをやっていました

MIMIC

ちなみにどんなバンドの音源をリリースしていたのですか?

JUN

BENCH WARMER ( ベンチウォーマー ) や drumkan ( ドラムカン ) 、WORKING CLASS HERO ( ワーキングクラスヒーロー ) とかですね。ちなみに、先ほど話した地元のバンドは Wormedup ( ワームドアップ ) っていうのですが、前澤さんプロデュースでCDをリリースしていました

MIMIC

では、そのバンドのレコードジャケットを外注として請け負ったのが初仕事になり、お仕事でのお付き合いが始まると。やがてカタログになっていくのだと思いますが、それ以外にも何かデザインされましたか?

JUN
あとはスタートトゥデイ・レコードからリリースされていた他のバンドのジャケットや、アパレルの取り扱いが始まってからは warp MAGAZINE( ワープマガジン ) に出稿していた EPROZE の広告なんかのデザインをしていましたね

高野

僕は JUN くんが作っていた warp MAGAZINE の広告で EPROZE の存在を知って、ネットで服を買うようになったんですよね

JUN
EPROZE ができる前から通販の好調ぶりはすごかったです。カタログがどんどん分厚くなっていって、発行するスパンもどんどん短くなり、傍目からでも取扱量が爆増しているのがわかるくらいでした

高野

その頃のカタログのアーカイブって会社にも飾ってあったよね?

西巻

あります、あります。Vol.1のカタログを使って、一度新聞広告を出したくらいですからね

こちらが当時発行されていたカタログ

JUN
あれはまだ僕がデザインする前のやつで、前澤さん自身が手がけていた頃のだね。カタログというか ZINE の頃だね

MIMIC

ZINE からカタログへ形態が変わっていったのですか?

JUN
そうです。最初は読み物もありました。でも、物販の調子が良くなったのでカタログページが増えて、読み物がどんどん少なくなっていき、最後の方は読み物はほとんどなくなり全部カタログになっていきました。商売が上手くいってるのが、ひしひしと伝わってきましたね

MIMIC

なんで CD やレコード販売を始めたのか聞いたことありますか? ご自身がアーティストなので、レーベルはわかるのですが、CD やレコードを通販するという発想は、普通のアーティストではなかなか出てこないと思うのですが

武藤

僕が前澤さんから聞いたのは、当時ツアーで各地をまわっていたときに、ライブ後にグッズを手売りしてたらしいんですよ。で、そのときに自分の好きな CD やレコードを仕入れて売ったら、それが大ウケしたみたいで。そこから CD やレコードを売ろうというアイデアが生まれたみたいですよ

西巻

当時のハードコアとかメロコアのシーンって、バンドがチョイスした CD やレコードを販売する「 ディストロ 」という手法があり。Switch Style くらい人気があると「 YOU X SUCK ( =前澤さんのアーティスト名 ) が選ぶバンドを聞いてみたい 」というファンは、結構いたと思うんですよね

JUN
僕は当時から前澤さんのことを「 他のバンドマンとはタイプの異なる人種なんだな 」って思っていました。当時のシーンは「 バンドマンたるものこうあるべき 」みたいな考え方が多い中で、多角的な視野を持っていた前澤さんみたいな人はすごく珍しかったんです。でも、僕はそこが面白いと思っていたし、その分、すごく大人びていて2つ上とは思えないくらいしっかりしていました

武藤

今で言うキュレーターみたいな感覚で、物販をしていたわけでしょ。本当に昔から頭がキレる人だよね

西巻

前澤さんに「 こういう販売手法って当時のシーンで流行ってましたよね 」って話をしたら「 それは俺が始めたんだよ 」みたいなこと言ってましたけどね

武藤

「 ライブに来てくれてるファンの人たちをもっと楽しませよう 」っていう考えの延長線上にそういうのがあったって言ってたよね

高野

その考え方って、その後の社内文化にもずっと息づいていましたよね。ハードコア的な DIY の発想で「 本当に自分たちが好きな仲間と好きなものだけを売っていく 」という。すごい徹底したコミュニティ作りというか

西巻

確かにそれはコミュニティ作りですよね。今話題の DAO とかも、言っちゃえばコミュニティ作りじゃないですか。前澤さんはそこが上手い。コミュニティ作りの延長で、会社組織も上手く作っていっちゃったから

武藤

事業作りもそうだよね。「 こういうのが好きな人は、こういうのも好きだろう。じゃあ、こういうことしよう 」というのが基本の考え方

JUN
でも、あの当時、バンドに夢中になっている人でそういう考え方ができる人って本当に少なかったんだよ。逆に「 ビジネス目線が強すぎ 」って思われていた節があったくらい

武藤

前澤さんは、やることに後からどんどんお金がついて来ちゃうから、誤解されやすいんだよね。でも、誰かを喜ばせたいという想いが先にあって、それを形にするのがうまいから、結果として、お金がついてくるだけなんだよね

ネット販売がスタート!恵比寿系ブランドと共に歩んだアパレル通販黎明期

MIMIC

そしていよいよネット通販に進出するのが ’00年1月の「 STMonline ( エスティエムオンライン ) 」になるわけですね

JUN

そうですね。カタログで行ってきた通販事業をネットに移行させたという

MIMIC

この当時のエピソードで何か覚えていることはありますか?

JUN

サイトを構築したのは僕じゃないので、側から見ていただけですけど、掲示板が超アツかったですね。ものすごい量の書き込みがあって、ストレートエッジとかそういうハードコアの精神論をみんなで議論していたり

MIMIC

楽曲どうこうじゃなくて、マインドの部分なんですね (笑)。めちゃくちゃ濃い人が集まってそう

西巻

あの当時は、どのバンドもみんな「 魔法のiらんど 」っていうサービスでサイトを無料でつくって BBS 機能をつけてましたよね

JUN

そこから「 今度、服を売るんですよ 」という話になって、「 EPROZE って名前だけは決まっているので、そのロゴをデザインしてくださいって 」言われて


アパレルEC事業のさきがけとなった EPROZE のロゴ

MIMIC

あのロゴも JUN さんが手がけたのですね。スタート時点では、どんなブランドを取り扱っていたのですか?

MIMIC

どうしてアパレルを扱うようになったかご存知ですか?

西巻

前澤さんが DEVILOCK の遠藤さんとバンド仲間だし、DEVILOCK 自体もすごく人気だったので「 遠藤くんのブランドを扱わせてよ 」っていう話からアパレルがスタートしたはずです

高野

それと前澤さんはもともと洋服が好きでしたよね。僕が初めて会ったときも、すんごいダボダボの Tシャツ を着てて、おしゃれでしたし

武藤

でも、根底には STMonline の顧客を有効活用して、さらにビジネスを発展させたいという考えがあったと思う

西巻

確かにライブに来てくれるようなお客さんってバンドTとか好きな人が多いし、アパレルと相性がいいですもんね

高野

DEVILOCK も人気絶頂期に入っていたし、DEVILOCK NIGHT ( デビロックナイト ) には当時のシーンで人気だったバンドもたくさん出演してましたもんね

MIMIC

EPROZE を立ち上げて、アパレルを取り扱いはじめるようになった’00年って、“恵比寿系” と呼ばれるブランドたちにとっては大きな転換期だと思っていて。AIR JAM ( エアジャム ) とハイスタの休止により界隈の人気も落ち着きだし、バンドシーンとリンクした世界観を打ち出していた “恵比寿系” が、アパレルブランドへと変わっていったタイミングというか。

そこを上手いこと切り替え、ネットへの進出にいち早く取り組んだことで、結果として “恵比寿系” がさらなる飛躍を遂げた印象があります。かたや “裏原系” は良くも悪くも変われないところがあり、ネット進出に出遅れてしまったので

武藤

そこは前澤さんがたまたま近くにいたからですよね

MIMIC

アパレルは最初から順調に売れたのですか? 当時はまだ洋服をネットで買うという習慣が根付いていなかったように思うのですが

武藤

それが売れてたんですよ。僕は大学生の頃から友だちとアクセサリーブランドをやっていたので、その当時 EPROZE で取り扱ってもらえないかと、打診したことがあったんです。でも、残念ながら「 アクセサリーは取り扱っていない 」ということで話は流れてしまったのですが、その後、大学を卒業して就職したのが DEVILOCK の EC システムを作ってるアパレル専門のシステム会社でした。

それで「 そういえば DEVILOCK って EPROZE で取り扱いがあったよな 」って思い出して、受注数をチェックしたことがあったのですが、びっくりするくらい売れていて (笑)。「 これは間違いなく伸びるわ 」と確信して、スタートトゥデイに転職したくらいなので

西巻

こうやって話をしてみると、僕も高野さんも武藤さんもみんな EPROZE をチェックしていたわけじゃないですか。もちろん、まだネットで服を買うことは一般的ではなかったけど、当時好きだったブランドの服を買いたいがために、不慣れなネットで使って、たどり着いていますからね

MIMIC

当時はブランドにすごい求心力があった時代ですもんね

高野

僕も DEVILOCK のお店に並んだり、DEVILOCK NIGHT に通うなかで EPROZE の存在を知りました。あの当時、DEVILOCK の服を手に入れるのは本当に激戦で。でも、ネットで買えることを知ったときには、衝撃を受けましたね。

これは入社してからわかったことなのですが、当時は仕入れれば仕入れるほど売れる時代でした。たまにバイヤーたちがミスして、余っちゃうときもあったのですが、前澤さんは在庫が余っても決して怒りませんでした。全部一任してくれるって、今思うとすごいことですよね

MIMIC

ちなみにそうした予算管理は、どのようにやっていたのですか?

高野

過去のデータから次の展示会の発注目安がわかるシステムを前澤さんが作っていました。「 この予算を達成するには、これくらいの仕入れが必要だよ 」みたいな感じで。その際、仕入れの度合いを選ぶ項目があったのですが、「 強気 」「 中庸 」「 弱気 」みたいなありきたりな文言ではなく「 フェラーリに乗りたいか 」みたいな遊び心のある文言を使っていたのが、前澤さんらしいと思いましたね

MIMIC

それはめちゃくちゃ良い仕組みですね。「 後払い 」じゃなく「 ツケ払い 」のときにも感じたネーミングセンスというか、選択肢がただのキーワードではなく、イメージできる願望に変わっているというか。

ZOZO のバックエンドシステムにあたる TO とか JO は前澤さんがプログラムしたとは聞いていましたが、発注システムも構築されているのですね

武藤

はい。全部、前澤さんが作りました

MIMIC

すげぇ (笑)。どの辺から作られているかご存じですか? 最初の STMonline もご自身で作られたのですか?

武藤

どうだったかな? 最初はお願いしたんじゃないかな? でも外注先が遅いし、高いから、リニューアルの際に自分で作ったんじゃないかな

高野

僕が入社したときには、社長室にパソコンのモニターが4つぐらいあって、前澤さんがずっとコードを書いている姿を見ました。当時は新入社員だったこともあり、朝の8時半ぐらいに掃除のために出社するのですが、そのときにはすでに前澤さんは仕事をしていて。で、帰りはだいだい夜の11時半ぐらいなのですが、まだ仕事をしている。それで翌朝も同じぐらいに出社すると、そのまま寝ないで仕事を続けているという。 「 社長、おはようございます!」って言ったら、「 あれ? もう朝か 」って (笑)

JUN

僕は ZOZOTOWN が始まる1年ほど前に入社したのですが、自分がデザイン担当、専務がそのデザインを切り出し、前澤さんがプログラムを組むという3人体制だったのですが、前澤さんはまったく休憩をとらないんですよ (笑)

僕なんかはタバコを吸いに行ったりして、適度に休むんだけど、前澤さんは朝から晩までずっと部屋で作業して出てこない。どんな集中力って、ずっと思っていました

MIMIC

ではフロントもバックも、基幹も WMS も、すべて前澤さんが書いていたのですね

武藤

すべて前澤さんが作っていました。操作を間違えるとエラーメッセージが出るのですが「 お前ふざけんな!2回目だぞ! 」みたいなメッセージになっていて (笑)。そういうところも前澤さんらしいユニークなものでしたね。

あと当時は人気商品の発売となると、アクセスが殺到して、サーバーが落ちてしまうことが多かったのですが、落ちると専務の携帯にアラートが飛ぶようになっていて、専務が近所の家から自転車でオフィスまで来て再起動みたいな対応をしていました (笑)。前澤さんが開発、専務が保守みたいな役割分担ですね

UNITED ARROWS の出店が決まり ZOZOTOWN が誕生

MIMIC

自分たちは当時、雑誌の編集をしていたので、ネットで洋服がどれくらい売れているか、まったくわかっていなかったのですが、サーバーが落ちてしまうほどの人気ぶりで、仕入れれば、仕入れるほど売れていたとは。当時、( ボクらが勤めていた )『 Ollie 』でももっと積極的に取り上げるべきでした

高野

僕らはもっともっとたくさん売りたいと思っていたのですが、ブランドの立場からすると、ネットで売りすぎると、( 当時はまだ主流だった ) 地方の卸先に影響が出るという心配がありました。それと、サイト上に商品が残っていると「 このブランドは売れてないのでは? 」と思われてしまう懸念がありました。ですので、流通量はすごく絞られていましたね

MIMIC

一番苦労したのは、ブランドの開拓だと思うのですが、そこはどうやっていましたか?

高野

当時の営業2トップは、前原さん ( =2代目 EPROZE 店長 ) と武藤さんでした。ブランドの人たちが集まるクラブに足繁く通って、音楽がガンガン流れる中で、何となく酔っぱらってブランドの方々と仲良くなりコミュニティを作っていくのが前原さんの役割。そうしてできた人脈に対して、昼の営業できっちりと締めにいくのが武藤さんの役割という。

いきなり正攻法で攻めると、当時はまだまだネットが毛嫌いされていて、門前払いを喰らうことも多かったので、まずはブランドの方と仲良くなるのが重要だと2人の背中から学ばせてもらいました

MIMIC

最初に DEVILOCK を取り扱えたのって大きいじゃないですか。そこから自然と SWAGGER や MACK DADDY も扱えるようになると思うので、そこまでくれば “恵比寿系” ブランドはコンプリートできるようになる。でも系統の違う “裏原系” ブランドを口説くのはハードルが高かったと思うのですが、その辺はどのように進めていったのですか?

高野

ずっと長い期間をかけて、武藤さんがアプローチしてたようなイメージがあるのですが

武藤

雑誌では “恵比寿系” “裏原系” って線引きされていましたが、音楽を掘ってきた遠藤さんは、JONIOさんや NIGOさん、滝沢さんたちからリスペクトを受けていたので、“裏原系” の方たちとのつながりも強くて、最初は遠藤さんから紹介してもらうことが多かったです

MIMIC

そこでも遠藤さんが貢献してくれたのですね。

武藤

そうです。例えば、エイプギャラリーができたときにレセプションパーティーに誘っていただいて、NIGOさんを紹介していただいたり

高野

一方で、そういったトップクラスに人気のあったブランドとは別に、これから人気の出そうなブランドたちにもアプローチしていこうという声も社内から上がりはじめました。Stylife ( スタイライフ ) や MAGASEEK ( マガシーク ) といった競合が現れはじめたので、そこと差別化を図るためです。

そして前澤さんからの命を受けて CIGNQ ( シンク ) と LIGHCA ( ライカ ) という次世代ブランドのセレクトショップを2店舗作りました

CIGNQ( 1、2枚目 )と LIGHCA( 3枚目 )の店舗をイメージして制作したCG

MIMIC

当時は買い取りですから、ブランドとしても非常にありがたかったと思いますし、徐々に「 買い取る量がすごいよ 」っていう評判も界隈で広まっていくと思うのですが、潮目が変わってきたなと感じるタイミングってありましたか?

高野

やっぱり、UNITED ARROWS の出店が決まって、モール型にしようという構想が生まれ、2004年の12月に ZOZOTOWN になったタイミングは大きかったと思います

MIMIC

UNITED ARROWS の出店は、どのようにして決まったのですか?

高野

あれ? ( 代表の ) 重松さんがロールスロイスに乗って、アポなしで来られたんでしたっけ?

武藤

アポなしなわけないだろ (笑)。アローズの偉い人が来るという話だけは聞いていて、前日からスタッフみんなで掃除して待っていたのですが、誰が来るかまではわかっていませんでした

高野

そしたら CHROME HEARTS ( クロムハーツ ) をめっちゃつけてる人が来社されて、それが代表の重松さんでした。その後の商談で前澤さんと意気投合したみたいで、「 UNITED ARROWS の取り扱いが決まったぞ! 」ってなって。社内に激震が走りましたね

MIMIC

それまではインターネット上に散らばったセレクトショップで、お店の名前は正直読めないし (笑)、知る人ぞ知るというか、服好きならば知っている、という存在だったのが、それぞれのブランドがそのままの屋号で出店するわけなので、お客さんにとっても非常に分かりやすくなりますよね

西巻

それと決済面でもメリットがあって、それまでは EPROZE だったら EPROZE 、ZYGORD ( ザイゴード ) だったら ZYGORD と、それぞれのショップで決済する必要があったのですが、モールになったことで一括で決済できるようになりました

MIMIC

それは大きいですね。あと ZOZOTOWN にブランドが出店する際には仮想の街に直営店を出すというコンセプトだったので、200万円かけて外装と内装を CG で作り込んでいましたよね。でもその CG はブランドトップに少し使うくらいで、ほぼ意味を成さないという (笑) 景気の良い時代でした。あれは ZOZOTOWN ができて少し経った頃ですかね?

西巻

以前、MIMIC さんで ZOZOTOWN の記事を掲載いただいたときに、トップ画像になっていたのが、おそらく ZOZOTOWN の最初期の頃なんですよ。でも、僕が入社した’05年9月には横スクロールの街並みに変わっていたので、多分 UNITED ARROWS の直営店ができたタイミングで、あの CG で作り込んだフラッシュ画像に変えたのだと思います

《あんとき 》のストリートからブレイクを果たした ZOZOTOWN を掘り起こせ!

MIMIC

ZOZOTOWN になってさらに人気が拡大していった感じですか?

高野

確かに物は売れていたのですが、自分たちは ZOZOTOWN の認知がどのぐらい広がっているのか、まったく分かっていませんでした。昼間は都内に出て買い付けをしていましたが、それ以外はほとんど、幕張のオフィスで作業をしていたので。送られてきた商品を検品して、採寸して、撮影して、それをパソコンに取り込んでファイヤーワークスで画像処理してといった具合に

西巻

入社してまず最初に教わるのが、ファイヤーワークスでの画像の切り抜きでしたよね。撮影した商品を上手く切り抜いて、背景を飛ばして、実物見ながらカーブで色調整して

JUN

例えば、原宿とかにオフィスがあって、界隈のショップやブランドさんたちと盛んにコミュニケーションを図っていたら「 最近、ZOZO の調子良さそうだね 」みたいな声を聞くことができたと思うのですが、そうしたコミュニティから離れて、かなりカチッとした働き方をしていたので、実感はなかったですね

MIMIC

当時のブランドやショップって、口を揃えたように「 世界観、世界観 」と言っていたと思うのですが、モール形式だとある程度、中庸にしていく必要があると思うのですが、ZOZOTOWN 以前と以後でクリエイティブを作るときに意識していたことってありますか?

JUN

ZOZOTOWN の前のセレクトショップ時代は、扱っているブランドのイメージを忠実に再現するようなデザインを心がけていました。なんのヒネりもないというか、むしろ、あえてヒネらないことを意識していました。「 こういったブランドを扱うセレクトショップはこんなイメージ 」というのを最大限、僕なりにカッコつけてデザインするイメージです。

一方で ZOZOTOWN 後は、いろんなブランドやショップの世界観が混同することになるので、デザインを考えるのがとても大変でした。でも、前澤さんから「 ZOZOTOWN は老若男女、誰にでも愛されるECサイトになりたい 」という想いを感じ取ることができたので、エッジの効いたデザインというよりも、みんなに好まれるデザインへとシフトしていくことになりました

MIMIC

前澤さんは最初から割とデザインに関してはそういう思想だったのですか?

JUN

最初からすごい広い視野で見ていたはずです。ブランドの方たちがおっしゃていた世界観って、ある意味、自分たちの考えるカッコ良さやルールにどれだけ厳しくこだわれるかというのがポイントだと思うんですね。でも、前澤さんはそのルール自体を客観視できる視野の広さがあったと思います

高野

そこについては、自分も同感ですね。なんか「 カッコつけるのと、カッコいいは違うんだよ 」というようなニュアンスの発言を前澤さんはよくしてました。事実、僕は「 お前はいつもカッコつけてんだよ 」ってよく怒られてましたし (笑)

MIMIC

あ、めっちゃ分かります、それ。いろんなブランドや人を取材してきた中で感じるのが、カッコつけないでカッコいいのが1番カッコいいというか。作ってカッコよく見えるものは、カッコつけているのであって、本当のカッコよさではないというか。これは感覚の話なので難しいのですが、それって雰囲気に如実に出るものですよね

JUN

前澤さんは、その辺の感覚が本当に鋭いんですよね。いい意味でみんなとズレているというか。みんなが見てるようなところからは見ていないので、「 それって何が悪いの? 」という感覚で固定観念を打ち壊すことができる

西巻

やっぱり、スケールが違うんですよね。一般人の感覚だと「 それって商売っ気が強すぎない? 」と思っちゃうところでも、本人はもっと上のレイヤーで全体を見渡しているから「 そんな細かい枝葉の部分について言われても 」って感じで、全然気にならないというか。良い悪いの話ではなく、話がそもそも噛み合わないんですよね

JUN

だから、僕は前澤さんが思い描いてる ZOZOTOWN の世界観に近づけるようにデザインするのが、正直、怖かったんですよ。やっぱり、ブランドさんやショップさんの考えもあるから。

なので、当時のデザインチームはブランドの考えるカッコ良さと前澤さんが進みたい方向性をどうしたら上手く融合できるかというのを地道に探っていましたね。でも、結果として、それが ZOZOTOWN らしさにつながっていったし、会社の文化としても根付くことになったと思っています

孫さんに「 経営者じゃない、アーティストだ 」と言わしめた、前澤さん独自の経営手腕

MIMIC

当時の社員の方たちが向いてた方向というか、目指してた目標や世界は、やっぱり前澤さんの考える理想と合致していたんですか?

高野

前澤さんは学生時代、社会人になるタイミングが近づくにつれ「 死んだ魚のような目をしながら満員電車に揺られるような働き方はしたくない 」と思ったらしく。もっと好きな仲間と好きなことをして、ちゃんと社会に貢献できるような仕事をしたいって。

だから、僕らは前澤さんが理念や理想をあえて口にしなくても、その言動からそうした想いを感じ取っていたので、自ずと前澤さんの掲げる理念に賛同したくなったというところはありましたね

MIMIC

アーティストの人がバンドを始める動機と似ていますね。やっぱりバンド活動の延長として起業があったのでしょうか?

高野

本当にそうだと思います。僕も入社したとき「 バンドみたいな会社だな 」と思いました

西巻

だから、孫さんにも「 前澤くんは経営者じゃない、アーティストだ 」って言われてましたよね

高野

あの当時、社外の人から「 前澤さんってどんな人ですか? 」って聞かれることが多かったのですが、僕は「 合理的な経営者の一面と繊細なアーティストの一面の両面を持ち合わせてる稀有な人です 」と答えていました。その姿を惜しみなく社員に見せるので、どんな社員もヤラれちゃいますよね (笑)

西巻

でも、現場の社員に見せてくるのは、大抵アーティスティックな側面なんですよ。特に上層部は数値責任を持っているので「 この人の本音は何なんだろう? 」と戸惑うところもありましたけどね。正直、僕は嘘くさい人だと思っていた時期もありましたし (笑)

高野

当時の社員総会で、前澤さんが全社員に向かってマイクパフォーマンスしているとき西巻くんは大体そういう顔してたよ (笑)

西巻

本人にも言いましたよ。大嫌いだったって (笑)。口ではすごい上手いこと言うけど、本当は銭ゲバに違いないと思ってましたから。

でも、自分も2011年に中国法人の事業を任せてもらって、今度は自分が社長みたいな役割を担う必要が出てきたとき「 うわ〜、こういうことだったんだ 」って悟るわけですよ。と同時に、これまでの前澤さんの言動がすべてリスペクトに変わったんですよね。そして帰国後に前澤さんに言うわけです。「 当時は社長が本当に胡散臭いと思ってましたけど、自分も経験を重ねたことでたくさん気づけました 」って

高野

前澤さんって本当に面白くて、そんな不信感を持っていた当時の西巻くんすら、めちゃくちゃかわいがっていたんです。なんでかっていうと、会社は社会の縮図だからって。社会には、めちゃくちゃ働く人もいれば、さぼる人もいるし、悪い人もいれば、いい人もいると。会社もそういう風にいろんな人たちを受け入れられるようにならないと、大きくなっていけないし、本当の意味で社会貢献もできない。だから、異物を受け入れて、新しい血を入れていくことが、会社の成長につながるんだって言っていました

西巻

確かに僕は当時、ものすごく生意気だったのですが、それでも前澤さんは側に置いてくれていたし、話も聞いてくれました

MIMIC

その辺は採用面でも心がけていたのですか?

高野

採用方法はその年ごとに変わっていたのですが、今話したようなマインドを伝えることには常に注力していました。先ほどの JUNくんの話ではないですが、どうやったらそれをシンプルな形で伝えられるのか、前澤さんと徹底的に考え抜いて採用に臨んでいましたからね

西巻

当時は人事担当者も夜中までミーティングしてたもんね

高野

本当に大変でした(笑)

西巻

でも、僕が人事担当を任された頃には、新卒採用をしないスタンスだったので、そういう体験ができませんでした。前澤さんに「 やりましょうよ 」って提案しても、大学生の形式的な就職活動の末に ZOZO を選んでほしくないって。「 本当に入社したいなら、直接連絡してくるでしょ 」って (笑)

MIMIC

ハードコアっすね (笑)

高野

そういう波は上場後にも時々ありました。ある年なんかは、急に前澤さんが「 先着1000名、書類選考では1人も落としません。必ず全員に会います 」って、熱いメッセージを投げかけて中途採用を始めたりして。実際に1000名の面接をして、人事にはものすごい負担がかかったけど (笑)

《 あんとき 》のストリートから上場へ。そして DEVILOCK 遠藤さんとの感動エピソード

MIMIC

ここからは話が多少前後しますが、上場に向けた話をお聞きできればと思うのですが、まず上場にあたって長らく運営を続けてきた STMonline が終了しますよね。次のステージに進むために決断すべきタイミングだったと思うのですが、終了の経緯を教えてもらっていいでしょうか?

西巻

僕が聞いたのは輸入 CD の取り扱いも多かったから、ジャケットに女性の裸や暴力的な表現のものがあって、上場の審査に引っ掛かりそうという話でしたね。ただ、それ以外にもTシャツを1枚売ったときの利益と、CD を1枚売ったときの利益を考えると、圧倒的にアパレルの方が上なので、シンプルにビジネス的な判断もあったと思うのですが

MIMIC

ちなみに上場はどのタイミングから目指していたのですか?

高野

おそらくですけど、’07年12月にマザーズに上場しているので、その数年前ぐらいから動いていたのではないかと思います。その辺から知らないスーツを着たおじさんがよく会社に来るようになってきたので (笑)。

でも、前澤さんは「 なんで上場するのか? 」とか「 会社の成長とは何だ? 」とか、当時の社員に何度も何度も丁寧に説明して、自問自答させるような機会もたくさんくれました。当時の20代そこそこの僕らからしたら、そういうのは全然わからなかったので

MIMIC

何のために上場するとおっしゃっていたのですか?

高野

先ほどの「 会社は社会の縮図 」という話と同じで、会社を成長させて上場させることができれば、もっとたくさんの人々と協同し企業の側から世の中を変える力をもてるようになる。そうすれば、本当の意味で社会に貢献することができるんだと。

この段階で初めて「 世界中をカッコよく、 世界中に笑顔を。 」という企業理念が生まれてくるんですよ。つまり、これは世界平和なんですよね。僕らは本当にそれを体現したいと思っている。だから、その実現に向けて一企業のアクションとして世界を変えていくためには、成長が必要なんだというのが前澤さんの想いでした

MIMIC

上場に向けて、社内で変化したことはありましたか?

高野

このタイミングでマーケティング部が立ち上がりました。それまでは「 マーケティングなんて必要ない。一番のマーケティングは隣にいる人なんだ 」と。「 隣にいる大事な仲間が何を考えてるか、何を好んでいるかを見極めれば、自ずと売るべきモノが見えてくる 」というのが前澤さんの考えでした。でも、それでもマーケティング部ができたということは、会社として次のフェーズに進むのだなと感じましたね

JUN

それと上場前に広告を打ちまくっていた時期があったよね

高野

マーケティング部が立ち上がってからですね

MIMIC

それまではノープロモーションで拡大していたのですか?

JUN

一生懸命お金をかけてプロモーションしなくても、口コミで広がった時代でしたが、その頃を境にストリート好き以外のお客さんも獲得する必要があるということで、広告を始めたんだと思います

高野

まずはメンズファッション誌に、片っぱしから出稿しましたよね

JUN

その辺は、前原さんと僕が中心となって進めていました。前原さんは「 二次元コードの位置はこっちの方がいいんじゃないか 」とか、ああでもない、こうでもないって、すごく真剣に悩んでました。文字を大きくしたい前原さんと、小さくしたい僕でよくせめぎ合いもしていたし (笑)

高野

で、限られた予算の中で最大限の効果が出るように、すごい堅実にやっていました。当時はまだまだメンズが圧倒的で、その裾野も全部取ろうとメディアも全部押さえようとしていましたから。

ある年なんかは「 目標予算まであと3億円足りないから、みんなでかき集めてこい 」って言われて、武藤さんや前原さんをはじめ、社員全員が扱ってるブランドに一斉にコラボを取り付けてくるみたいなときがありました。それでもコミットした目標を必ず達成するっていうのをずっと続けてきて。今考えると、それは上場に向けての実績作りだったと思うのですが

MIMIC

数字に対するコミットは強かったのですか?

高野
めちゃくちゃ強かったですよ

MIMIC

ちなみにコラボでもインラインでもいいのですが「 これは売れたな! 」と記憶に残っている思い出の商品はありますか?

高野
僕は JUNくんがデザインした MAD FOOT ! ( マッドフット ) との初コラボが思い出深いですね。エナメルのやつ

MIMIC

おぉ!マジですか。ボクが生産を担当させてもらったやつじゃないですか。ありがとうございます。感慨深い (笑)。

ちなみにあの型押しがされた PVC は工場が手配した素材屋さんでは見つからず、自分で市場から拾ってきたものなんです。ですので、量産時にちゃんと生地が納品されるか心配で、心配で。すごい数だったし ( 苦笑 )

MAD FOOT!と JUN WATANABE コラボによって誕生した EPROZE 限定の MAD MANS 。MIMIC 主宰の野田が MAD FOOT!勤務時代に生産を担当 ( 画像引用 :ヤフオク )

西巻

服好きの自分からしたら、会社の先輩がそういう人気ブランドとコラボしているって胸熱でしたよ。そんなことできるんだ !?って

高野

当時、JUNくんが「 どこかとスニーカー作れない?」って聞いてきてくれて「 じゃあ、自分の担当している MAD FOOT ! に聞いてみるね 」って打診したことから実現につながったんですよね。結果として「 別注スニーカーってこんなに売れるんだ!」ってことがわかって、そこから社内中のバイヤーがこぞって JUNくんにお願いすることになるという (笑)

MIMIC

それでは最後になるのですが、冒頭でもお話しした前澤さんが宇宙へ行くとなった際に、宇宙服 にDEVILOCK と UNITED ARROWS のワッペンをつけていたのを見てどう思いましたか?

続きは切り取り線をなぞってね!

前澤さん と DEVILOCK 遠藤さんが涙した感動のエピソードとは?

西巻

僕はなんか嬉しかったですね。やっぱり、あれだけお金持ちになっちゃうと、見える世界や体験できることもすべて変わったと思うのですが、そんな中でも「 宇宙に行きたい! 」というヤンチャな夢を叶えるときに、あの2社のワッペンをちゃんとつけていくところは律儀だなと。おそらく、前澤さんにとっても自分の人生を変えるきっかけをくれたのが、あの2社なんでしょうね

高野

同感です。胸熱でしたね。DEVILOCK と UNITED ARROWS は、会社が迎えた2つの転機の恩人だと思っていて、その恩を未だに忘れないところがまたカッコいいなと。

MIMIC

何も言わずに、ですもんね。外から見ているボクですら、律儀に出自を忘れず今も感謝を続けていることがはっきり伝わり、カッコいいと思いこんなツイートもしました。

ストリートという出自を忘れてなのか恥じてなのか分かりませんが、隠すような人もいる中で、あのような大舞台で、その出自を誇るというか、その姿勢に嬉しくなりました

高野

この写真は ZOZOTOWN 10周年のときに、前澤さんと ( DEVILOCK の ) 遠藤さんと僕で撮ったものです。

この会は ZOZOTOWN の10周年を祝うスタートトゥデイの忘年会だったのですが、この会に遠藤さんをゲストとしてご招待させていただきました。日頃からお世話になっている方も来賓として呼んでいたので、前澤さんのところにはいろんな方がお酌に来て、遠藤さんと話す機会がなかなかもてませんでした。

それで会が終わった後に、ようやく遠藤さんと前澤さんが話す機会ができたのですが、遠藤さんが「 友作はすごいデカいヤツになったな。なんだかすごく距離が離れちゃった気がするよ 」って冗談めいて話したんです。そしたら前澤さんが「 そんなこと言わないでくださいよ 」って急に泣きはじめちゃって。すると、今度はその姿を見た遠藤さんももらい泣きしちゃって、二人して泣いてるんですよ。それを見たとき「 変わらない絆というか、すごくいいな 」って思いましたね

MIMIC

服が好きで好きで仕方がない、ブランドが好きで好きで仕方ない。そんな熱い想いを持った方々が作り上げる圧倒的な熱量やブランドへのリスペクトが滲み出ていたのが《 あんとき 》のスタートトゥデイであり、《 あんとき 》のZOZOTOWN だったと思います。

創業社長から代替わりし、上場企業として常に成長を求められる中で、よりビジネスマインドになってしまう部分もあると思います。しかし、西巻さんをはじめとした当時のカルチャーを知るスタッフや、「 ファッションチアリーダー 」という遊び心溢れる肩書きを持つ武藤さんなど創業時のカルチャーや熱量を受け継ぐスタッフは今も社内に存在し、当時とは違う形でファッションに真摯に向き合っているのだと感じました。

ただ、個人的にはやはり《 あんとき 》の ZOZOTOWN が忘れられない。25周年を迎えた今後の ZOZO には、そんな一面も見せてくれることを期待します。なんだったら限定で EPROZE 復活させて、《 あんとき 》祭りでもやりましょう (笑)

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