去る12月4日(水)、渋谷の某イベントスペースにて、MIMIC ( ミミック ) 初の試みとなる《 あんとき 》セミナーが開催されました。
これは《 あんとき 》マーケットや《 あんとき 》セレクトに続く、ミミックの新しい取り組みで、《 あんとき 》のストリートをマーケティング視点で振り返ることで、今の時代にも活かせる「 売り方 」のヒントを見出そうというもの。あれだけの熱狂を生み出したカルチャーにも関わらず、こと「 売り方 」についてはほとんど深掘りされる機会がないため、ミミックではそれをセミナーとして皆さんと共有しようと考えた次第。
記念すべき第1回目となる今回のセミナーでは、数々の伝説的な施策によって東京をスニーカーの中心地に変えた NIKE 東京プロモーションに焦点を当てました。
というのも95年の AIR MAX に端を発するハイテクブームは、ストリートが生み出した偶然の産物だったと思うのですが、00年以降になってくると「 メーカーの意図 」を感じとれるようになります。それは《 あんとき 》のストリートで活躍した方々と NIKE の蜜月関係によって生み出された数々の仕掛けによるものなのですが、語られるのはプロダクトについてばかり。
そこで我々ミミックでは「 カルチャーに再現性はないけれど、売り方に再現性はある 」と考え「 当時のキーパーソンと共に NIKE の革新的なマーケティング戦略を振り返っていくことで、現代のマーケティングに活かせるヒントを得られるのでは? 」と考え、セミナーという形式で開催させていただくことにしました。
( 左 ) 今回のセミナーは抽選制で、当選した方のみが参加いただける形式とさせていただきました。当選者にはミミックらしい遊び心のあるお知らせが ( 右 ) 参加者全員に KIX SIX さんより提供いただいたシューレースも配布させていただきました
日本初の試みとなった NIKE のインフルエンサーマーケティング
本セミナーはミミック主宰者の野田の司会進行のもと、時系列に沿う形で、第一部と第二部に分けて開催されました。第一部のテーマは、ズバリ「 裏原宿の多彩な才能と NIKE を結びつけた、日本初のインフルエンサーマーケティング 」
東京プロモーションを立ち上げた張本人である坂井秀彦さんと、その坂井さんのもとで活躍した秋元凛太郎さんに登壇いただき、 NIKE がストリートでプレゼンスを高められた理由について解説いただきました。
ご登壇いただいたお二方
坂井 秀彦さん( stop monkeying around 株式会社 代表取締役社長 )
PR エージェンシーでキャリアをスタートし、30年以上に わたって PR とマーケティングに携わる。 NIKE、Levi‘s、Fossil、Jack Daniel’s、Safilo など、 さまざまな外資系ライフスタイルブランドでマーケティングや ブランドマネージャーを担当。NIKE では、まだ日本で 馴染みの薄かった「 インフルエンサーマーケティング 」 を立ち上げ、ストリートにおける絶大な NIKE の影響力をつくりあげた立役者。サーフブランド Hurley の日本での立ち上げメンバーでもあり、ソーシャルグッドやカルチャーマーケティング、 戦略 PR を得意とする。店舗オープンからスタッフ教育に至るまで、幅広い分野の豊富なコミュニケーション経験値が特長
秋元 凜太郎さん( FLY 編集長)
1976年生まれ。バスケットボールカルチャー誌『 FLY 』編集長。 大学卒業後 109 系アパレルメーカーを経て、 2001年にナイキジャパンに入社。 インフルエンサーマーケティングやグラスルーツイベントを担当。2011年、原宿にセレクトショップ「 A-1STORE 」 をオープンし、2014年に『 ABOVE 』を創刊。2017年『 ABOVE 』と同じスタッフで『 FLY 』を立ち上げ、現在は株式会社ブーマーにてスポーツを軸に幅広いクリエイティブワークに携わる
数々の伝説的な施策を打ち出した、東京プロモーションが設立された経緯
まずは、東京プロモーションが設立される’00年に至るまで、日本ではどのようなスニーカーシーンの変遷があったのかが解説されました。転機となったのは、’95〜’96年にかけて巻き起こった AIR MAX 95 の大ブーム。
側から見れば、「 商品が売れまくってウハウハだったはず 」と安易に思いがちですが、日本においてスポーツ領域でコアなアイデンティを確立する前に、ライフスタイル領域で爆発的にヒットしてしまったことで、社内ではジレンマが生じていたといいます。坂井さんも「 アスリートではなく、ストリートの領域で年々売上が増えていくのは、嬉しい反面、内心は複雑だった 」と当時の心境を話してくれました。
そこで、そうした状況を打破しようと NIKE が打ち出したのは、なんと「 ファッション誌へ商品の貸し出しを禁止する 」という施策。当時は SNS が発達した現代とは異なり、若者たちの唯一の情報源だったファッション誌に商品を露出させることこそが、成功の方程式であるにも関わらず、それをやめるということは、ライフスタイルへの訴求をやめることを意味します。
社内的には「 原点であるスポーツ領域に立ち返ろう 」という意気込みのもとに下した判断だったそうですが、当然のごとく、これまで NIKE が築いていたライフスタイル領域( 主にファッション領域 )での売上は競合にがっつりと奪われることに……。
「 今思えば、ブレーキのかけ方がマズかった 」と坂井さんは振り返りますが、結果としてこの判断は売上の大不振を招き、 NIKE バブル崩壊のトリガーを引いてしまうことになりました。
「 そこで再び、ライフスタイル領域でのプレゼンスを取り戻そうと、いくつかのプロジェクトが立ち上がることとなりました。その中のひとつが東京プロモーションの設立だったんです。元々 PR をやっていてメディアとも接点があり、ハイテクスニーカーブームが巻き起こったストリートとも距離が近かったこともあり、私がその立ち上げ役に抜擢されることになりました 」( 坂井さん )
生き馬の目を抜く熾烈な世界市場でトップを直走る NIKE とあれば、さぞ、綿密な計画を立てて、事業を起こしていくのだろうと思いがちですが、「 実は結構ざっくりなんです(笑)」と語る坂井さん。東京プロモーションも「 ライフスタイル領域を取り戻せ 」くらいの大きな命題が与えられただけで、具体的に何をやれという指示はなかったと言います。
「 なので、まずは3つの大きな枠組みづくりに取り組もうと考えました。1つ目は、ストリートにきちんとしたネットワークを構築し、ライフスタイル領域で稼いだお金をライフスタイル領域へ還元していくフローをつくること。自分たちが意図しないところで巻き起こった AIR MAX 95 ブームの反省を活かして、自分たちも積極的にストリートに関与できる土壌をつくりたいと考えたんです。
2つ目は、日本でもアートと音楽とスポーツがリンクするライフスタイルカルチャーを築きたいと思いました。アメリカにおける NIKE は『 ニューヨークのブロンクスで、グラフィティが描かれたバスケコートの中にラジカセを持っていき、音楽流しながらストリートバスケを楽しむ 』みたいなイメージ ですけど、日本ではどちらかと言うと『 部活動のブランド 』というイメージ。そこを払拭したいと考えたんです。
そして最後は、世の中のトレンドをきちんと意識して、何が起きているのかをしっかり把握できる体制をつくることです 」( 坂井さん )
キムタクにモノを教える人に狙いを定めた、日本初のインフルエンサーマーケティング
そんな経緯で立ち上げられた東京プロモーションが最初に打ち出した施策は、日本で最初に行われたと言われているインフルエンサーマーケティングでした。今でこそ、手垢のついたマーケティング手法ですが、四半世紀も前に「 インフルエンサー 」という名称を用いて、実践までしていたとなると話は別です。セミナーの中身は、その革新性へと迫っていきます。
「 初めからそういう手法を狙ってやったというよりは、後付け的にそうなったという感じなんです。僕が東京プロモーションで最初にやったイベントが、都内のスタジオにバスケコートをつくって、そこにグラフィティウォールやバーを併設して、ブロンクスっぽい体験をしてもらうというものでした。そのイベントでDJをやってくれたのが、偶然にものちにこの施策のキーマンとなる DJ HASEBE さんだったんです。
そこから HASEBE さんとのつながりができて、当時彼がレギュラーイベントを持っていたハーレムやイエローなんかのクラブに通うようになり、そこでさらに音楽系のネットワークができあがっていきました。で、そのつながりの中でカッコいい人がいたら、 NIKE のスニーカーを提供して履いてもらうようになり、そうした活動がインフルエンサーマーケティングと言われる施策の原点となったんです 」( 坂井さん )
また秋元さんは「 入社間もない’01年当時、坂井さんがつくった企画書に『 インフルエンサー 』という文字が大々的に書かれていたことを今でも鮮明に覚えている 」と説明。
図表を使いながら「 水が上から下へ流れるように、三角形の頂点にいるインフルエンサーの方たちから一般の方たちへ NIKE が好きな人を増やしていきたい 」と話していた坂井さんの姿が、とても印象的だったと語ってくれました。
「 当時よく話していたインフルエンサーの定義は、わかりやすく言えば、キムタクにモノを教えちゃうような人。当時は『 キムタクが着れば、その服が売れる 』といった構図ができあがっていたと思うんですが、そのキムタクに本当にいいモノを紹介しているような業界人に、まずは NIKE を好きになってもらおうと考えたんです 」( 坂井さん )
そのため、先ほど話にあがったクラブはもちろん、ファッションブランドの展示会やイベントなど、業界人が集まるところには365日中、300日くらいは顔を出していたといいます。
事実、秋元さんの入社後の初仕事も、 HASEBE さんが開催する地方イベントに NIKE と取り組んだキャンペーン用のTシャツを届けるという仕事だったそう。「 とにかく、いろいろな現場に顔を出して、いろんな人と仲良くなるのが、僕に与えられたミッションだった 」と秋元さんは当時を振り返ります。
「 実際、 HASEBE さんを起点にわらしべ長者的にいろんな人と仲良くなることができ、例えば、ミミックの吉崎さんも当時はハーレムでバーテンダーをしていて、その後、ヘクティクに転職したことで真柄さんや江川さんを紹介いただきました。SNS がない当時は、クラブこそが業界人の集う、唯一の社交場だったんです 」( 秋元さん )
コラボブランド F.C.R.B. の誕生やストリートのキーマンたちとの限定商品の製作
そして、こうしたインフルエンサーの方たちとの交流は、プロモーションとして NIKE のスニーカーを履いてもらうことから一歩先へ進み、一緒にコラボスニーカーをつくったり、一緒にブランドをつくったりといった関係性へと発展していきます。中でも印象深いのが、単発のコラボではなく、SOPH. の清永さんと試みたコラボーレーションブランド F.C.R.B. の取り組みではないでしょうか。
「 当時の NIKE はフットウエアのイメージが強く、フットウエアで面白いものを出したら、並んででも買ってもらえるけどアパレルはそうではない、という話になりました。『 じゃあ、スニーカーと同じようにイノベーションのようなものをアパレルにも実装できれば、高単価で売れるようになるんじゃない? 』と考えるなかで、ライノの蔡( 俊行 )さんや編集者の岸( 伸和 )くんに紹介してもらったのが清永さんでした。
その当時、清永さんはすでにバーチャルサッカーチームをコンセプトにした F.C.R.B. というブランドを始めていました。ちょうどその時、ワールドカップが開催されるというタイミングと重なったこともあり、バーチャルサッカーチームのバーチャルサプライヤーという立ち位置でコラボレートするのは面白いんじゃないかというアイデアが生まれました。そこからコラボレーションブランドの取り組みがスタートすることになったんです」( 坂井さん )
とはいえ、 NIKE がアパレルブランドとコラボレートするのは初の試みであったため、当時の CEO だったマーク・パーカー氏のもとまで赴き、プレゼンをして許可を得る必要があったそう。ただ、 NIKE の社内には「 Just Do It 」や「 Innovate or Die 」といった標語を掲げるくらい「 とりあえずやってみよう! 」という文化が根づいていたため「 意外とすんなり OK をもらえた 」と坂井さんは振り返ってくれました。
「 SOPH. はストリートブランドの中ではいち早く機能素材なんかを取り入れていたこともあって、イノベーション好きの NIKE と親和性が高かったことも功を奏しました」( 坂井さん )
また、東京プロモーションといえば、’00年前後から発売された限定商品のリリースなどを通じて知った人も多いのではないでしょうか。裏ダンクをはじめとする co.jp などの取り組みでは、どんなスニーカーを作りたいのかリクエストを聞いて、ストリートでカッコいい人と実際にフットウエアを作る部署の人たちをマッチングさせるような役割を担っていたことも教えてくれました。
裏原宿に突如出現した NIKE のコンセプトショップ AD21 の裏話へ
そして話は、01年 〜 05年にオープンしていた NIKE のコンセプトショップ AD21 の話題へ。このショップは NIKE が重視するイノベーションをフットウエア、アパレルと展開してきたなかで「 次はリテールスペースでもやれないか 」と考えるようになったことから誕生したといいます。
画像引用;sugar cube vintage
東京プロモーションの設立時と同様、会社はやはり「 具体的に何をやるかは現場にお任せ 」というスタンスだったため、坂井さんたちは世界中の NIKE の限定商品を集めた “正規の並行屋” というコンセプトで当初オープンさせたそうです。
「 その後、東京のマーケットが世界市場の中で大きな存在感を放つようになったことで、グローバルのデザイナーがショップのコンセプトづくりに協力してくれるようになりました。それで月1くらいのスパンで丸ごと店のテーマを変えるという枠組みがつくられるようになったんです 」( 坂井さん )
「 毎月、グローバルのデザインチームから降りてくるテーマをもとに、夜通し店舗の内装チェンジにつきあうのは本当に大変だった 」と秋元さんは当時を振り返りますが、坂井さんは「 売上に対して厳しい要求をされたことがなく、どちらかと言うと NIKE のブランドイメージを向上させる媒体のような扱いのショップだった 」と、その特性について話してくれました。
今でこそ、コンセプト的なショップをつくって、セールスは他でやりますという取り組みは当たり前になりましたが、20年以上も前にそれを実践していたことは非常に画期的な取り組みといえるでしょう。
今なお、多くの人たちの記憶に残る、日韓ワールドカップのアンブッシュマーケティング
続いて話題は、2002年の日韓ワールドカップで仕掛けられたアンブッシュマーケティングのエピソードへと移っていきました。
アンブッシュマーケティングとは、ワールドカップやオリンピック・パラリンピックなど世界的なイベントの際に、公式スポンサーではない企業がイベントに便乗した広告活動を行い、公式スポンサーであるかのように振る舞うマーケティング手法。
このときの NIKE がグローバルで仕掛けたプロモーション企画「 スコーピオン・ノックアウト 」は、当時の名だたるプレイヤーと共にあのカントナまで出演したビデオや、数々の雑誌をジャックしたサソリのマークなど、20年以上経った今でも頭に残っている最高のプロモーションの1つだと思います。
「 このときの私たちのミッションは、ワールドカップをテーマにつくられたグローバルのコンセプトを日本でどうローカライズしていくかでした。そこで当時、代々木体育館の横のフットサルエリアが空いていたので、そこにテントを立てて、その中でこの動画にもあるような檻の中のフットサルコートという世界観を構築しようと考えたんです 」( 坂井さん )
「 この取り組みが成功したことで、隣の第一体育館に拠点を移してさらに1ヶ月間、 NIKE パークを開催しました。そこでは中田英寿さんや稲本潤一さん、小野伸二さんといったスター選手の特別来場とは別に、サッカーの超上手い一般の方を集めて、子どもたちと楽しむといった企画を実施しました。
彼らがトップアスリートとの取り組みだけではカバーできない、子どもたちとの密なコミュニケーションを担ってくれたおかげで非常に喜んでいただけました。この出来事がきっかけで、その後の NIKE のイベントにはデモチームと呼ばれる謎のスーパープレー集団が召集されるようになっていきます」( 秋元さん )
坂井さんから語られた、現場でしか得られないものの大切さ
そして第一部の最後には、来場いただいたファッション関係者やマーケティング関係者の方たちへ贈る、坂井さんからのアドバイスで締めくくられました。
「 プロダクトにストーリーを持たせることが大切 」との言説はよく聞きますが、それをいざやろうとすると、想像以上に難しいもの。それを実際に実践してきた坂井さんは、どんなことを心がけていたのでしょうか。
「 僕らが絶対にやってきたことは、必ず “現場に行く” ということでした。例えば、いま企画をつくろうとすると、会社でネット情報を調べたり、ChatGPT に聞いてみるというようなことをするのかもしれません。でも、現場にしかない雰囲気や情報というものは絶対にあって、それを得ることでしかつかめないトレンドの感じ取り方があるのも事実です。やっぱり、現場で磨かれた感性は、個人にとっても会社にとっても大きな資産になるんじゃないかなと思っています。
また、今のインフルエンサーマーケティングの手法だと、インフルエンサーとは仕事のアウトプットを手助けしてくれる存在と思われているかもしれません。でも、僕らにとってインフルエンサーとは、良質なインプットのために存在していました。彼から教えてもらうことが非常に多かったんです。ですので、インフルエンサーの手を借りて何かしたいと思うなら、自分が実際に影響を受けて関わりたいと思うような人たちをパートナーに選ぶのがいいと思います。そうすれば、自然と現場にも足を運びたいと思うようになりますから 」( 坂井さん )
フォロワー数ばかりに目を向けがちな昨今のインフルエンサーマーケティング。でもフォロワー数は絵作りのみで作れてしまうことも事実。また《 あんとき 》には、フォロワー数という指標すらない時代でしたので、その方が持っている影響力に目を向け、その影響力を知るには自分が会って、現場で体感する。これこそがインフルエンサーマーケティングの本質であるということを教えていただけたような気がします。
セミナーの第一部はここで終了。その後、10分ほどのインターバルを挟んだのち、第2部がスタートします