1991年に藤原ヒロシさんが雑誌『 CUTIE ( キューティー ) 』の連載「 HFA( Hiroshi Fujiwara Adjustment )」で紹介したことをきっかけに、日本のストリートシーンで大ブレイク。以来、黎明期の裏原宿シーンを代表するブランドとしてリスペクトされ続ける insane ( インセイン ) 。近年も BARNEYS NEWYORK ( バーニーズ ニューヨーク ) 、BEAMS ( ビームス ) 、the POOL aoyama ( ザ・プール青山 ) といった名だたるブランドやショップとコラボレーションを果たし、今年は uniform experiment ( ユニフォームエクスペリメント ) とのカプセルコレクションで話題を集めたのも記憶に新しいところではないでしょうか。
1991年1月号の「 HFA 」で初お披露目となった insane。藤原ヒロシさんによりイギリスのスケートマガジン『 RAD 』で発見されたのが紹介のきっかけ( 雑誌『 CUTIE 』より )
続く、1991年3月号の「 HFA 」でもリコメンドされる insane。ゲストのスチャダラパーや藤原ヒロシさんたちが、ロンTやショートパンツなどを着こなしている。一緒に紹介されているのは、ANARCHIC ADJUSTMENT ( アナーキック・アジャストメント ) や HAZE ( ヘイズ ) といったブランド( 雑誌『 CUTIE 』より )
そうしたなか、去る8月19日から9月10日までの約1ヶ月間、insane を手がけるジェド・ウェルズの個展が、東京の田端にある WISH LESS gallery ( ウィッシュレス ギャラリー ) で開催されました。会場では、ジェドが手がけた原画やシルクスクリーンポスターに加え、本展のためだけに制作されたオリジナルTシャツなども限定販売。しかも、初日に開催されたレセプションパーティーにはジェド本人も登場するとあって、開催期間中はコアなファンたちを中心にマニアックな賑わいを見せていました。
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初日のレセプション終了後に撮影された、お客さんたちとの集合カット( WISH LESSのインスタグラムより )
そこで MIMIC 編集部も「 こんなチャンスを逃すまい 」と、ご本人に取材を敢行。これまであまり知られていなかった insane のルーツや躍進の背景となった’90年代初頭のUKストリートシーンについて話を聞いてきました!
ジェドが強い影響を受けた黎明期のUKスケートシーンと insane 立ち上げの経緯
ジェドがスケートボードにのめり込んだきっかけから教えてください
ただただ楽しいから、それだけだよ。1977年に UK 中のティーンたちの間でスケートボードのムーブメントが巻き起こって、みんなスケートボードの自由さにハマってしまったのさ
1977年のイギリスというとパンク真っ只中ですよね?
当時は、どのようにしてスケートボードの情報を入手していたのですか?
『 Thrasher Magazine ( スラッシャーマガジン ) 』などのアメリカの雑誌ですか?
もうこのタイミングには、イギリスに独自のスケートシーンが存在していたのですね?
具体的にはどのように情報を収集し、活動を続けたのですか?
消滅してしまった僕らのスケートシーンの続きを、カリフォルニアのスケートシーンに見出すことにしたんだ。イギリス国内の専門誌も廃刊となって、情報源がなくなってしまったので、『 Thrasher Magazine ( スラッシャーマガジン ) 』を読みはじめるようになったのもこの頃だね。当時のイギリスでオリジナルのスケートカルチャーを生み出していたスケーターの中には、スティーブ・ダグラスたちのようにアメリカに渡ってスケートを続け、成功するスケーターもいた。のちに彼が NEW DEAL ( ニューディール ) を立ち上げたのは有名な話だろ。
’80年代にバートライダーとして活躍し、渡米後、1990年にアンディ・ハウエとポール・シュミットとともにスケートブランド、NEW DEAL を設立したスティーブ・ダグラス。スケーターとアーティストが自由にクリエイティビティを発揮できるブランド観をつくり上げ、新しいスケートカルチャーの流れをつくった( 画像出典:NEW DEAL )
もちろん、イギリス国内でスケートを続けて、成功したスケーターもいたよ。僕の友人のジェレミー・フォックスは Deathbox ( デスボックス ) というカンパニーを設立して、ヨーロッパ中でスケーターを発掘し、のちにルーン・グリフバーグやトム・ペニーといった優れたスケーターをアメリカへ引き連れて、スケートボードの勢力図を塗り替えたからね
Deathbox は、トム・ペニーやジェフ・ローリー、ルーン・グリフバーグといった優れたユーロライダーとともに活動拠点をカリフォルニアに移した際に、FLIP ( フリップ ) と改名。業界を激震させたチームビデオ『 Sorry 』の発売により、アメリカ中心主義だったスケートシーンの勢力図を一変させた
ちなみにスケートブームが去ってしまう以前に、当時のイギリスのシーンで中心的な役割を担っていたのは、どんな人たちだったのですか?
ロンドンブリッジの周辺に、放棄された倉庫が並ぶ汚いエリアがあったんだけど、そこの倉庫の一角をジャックして数人のスケーターたちが Benji Boards ( ベンジーボード ) というスケートカンパニーをスタートさせたんだ。この Benji Boards は、当時のロンドンのスケートシーンでデッキブランドとして大成功を収めたブランドで、多くのスケーターたちに強い影響を与えていた。当時のイギリスシーンで絶大な影響力を誇っていたジェレミー・ヘンダーソンやジョン・サブロスキー、カリフォルニアから来ていたトニー・アルバなどもこの界隈に集っていたね
1978 年に撮影された Benji Boards のプロモ映像では「 Harrow 」で滑るジョン・サブロスキーの姿が収められている( 出典:Youtube )
えっ!ジェレミー・ヘンダーソンって『 SHUT ( シャット ) 』設立にも関わっているという、あのニューヨークのレジェンドスケーターとして知られるジェレミー・ヘンダーソンですか?
そう。彼は ’70年代のイギリスのスケートシーンで最も影響力を持っていたスケーターだったんだ。のちにアメリカに渡って、’80年代後半からニューヨークのシーンに新しい風を吹かしたよね。
それと T. Rex のマーク・ボランが交通事故で亡くなった後、彼の奥さんであったジューン・チャイルドがイギリスでスケートブランドを運営していた子どもたちに金銭的な支援を行い、シーンの活性化に大きく貢献してくれたという話を最近聞いたよ。先の Benji Boards の立ち上げには、ジューン・チャイルドがシド・バレットの世話人であったこともあり、ピンク・フロイドが金銭的な支援をしていたという噂もあったね。
ちなみにこの辺の歴史は VANS ( ヴァンズ ) が8月18日からロンドンで開催していた「 LONDON CALLING! 」というトリビュートイベントでも紹介されているよ。イベントにはトニー・アルバとスティーヴ・ヴァン・ドーレンもゲスト出演したようだね
’70年代にイギリスを拠点に活動していたスケーターたちに敬意を表すために開催されたトリビュートイベント「 LONDON CALLING! 」。写真は VANS UK の公式ページから( 画像出典:VANS )
1979年にシーンが消滅してからは、しばらく低迷期が続くことになるのですか?
イギリスでは、1979年から1984年までの5年間をスケートの “暗黒時代” と呼んでいるんだ。その時代はお手本となる先輩スケーターたちも身近におらず、みんな手探りの状態のままスケートを続けていたんだ。当時僕が住んでいたワイト島( イギリスのイングランドの島 )では、僕が唯一のスケーターだったしね。『 Thrasher Magazine 』でカルフォルニアのスケートシーンの情報を入手しながら、わずかなスケート仲間たちと小さなイベントやコンテストを開催し、ZINE なんかを作ってお互いにコミュニケーションを図っていたんだ
『 Thrasher Magazine 』やスケートギアはどうやって手に入れたのですか?
ジェドはのちに『 RAD 』の表紙を飾るほどのスケートの腕前だったようですが、当時、どこかのカンパニーからスポンサードされていたんですか?
のちに Deathbox がサポートしてくれたね
『 RAD 』の表紙を飾るジェド
それはプロライダーとして?
プロライダーの定義が曖昧だから表現が難しいけど、金銭的な支援を得ることはなかったよ。一時的なチームメンバーみたいな感じさ。当時のイギリスでシグネチャーボードを出していたのは、数人くらいしかいなかったからね。ただ、イギリスの本格的なスケートカンパニーである Deathbox からサポートを得ることは、アメリカのカンパニーから間接的なサポートを得るよりも、ずっと名誉なことだったんだ。
ちなみに僕が insane ( インセイン ) をスタートさせた当初は Deathbox がディストリビューターとして名乗り出てくれたんだ。Deathbox が FLIP と呼ばれるようになっていた 90 年代半ば、彼らと一緒にカリフォルニアに遊びに行ったことがあったんだけど、彼らは当時 Birdhouse distribution で働いていて、親切にも『インセイン』のプロデュースをオファーしてくれたんだ。僕はアメリカに移りたくなかったので、断ってしまうんだけど
そんな insane はどういった経緯から立ち上げることになったんですか?
insane は1984年にスタートすることになるんだけど、その当時、僕は生まれ故郷のワイト島でスケーターをしながら、考古学専門のイラストレーターとして働いていたんだ。もともと、クリエイティブな家庭環境の中で育ったこともあってか、自分でTシャツやトレーナーにイラストを描いて着ることが多かったんだけど、それがそのまま insane のブランドルーツになった感じだよ。それからシルクスクリーンを使っていろんなアイテムを作るようになって、ブランドが本格的に始動していったんだ
insane の初期のロゴ
商業的に立ち上げたというよりは、ご自身の趣味的な意味合いが強かったんですね
そう。しばらくすると、イギリスのスケーターたちの間でちょっとした話題となって、各地にあるスケートショップで insane を取り扱ってもらえるようになった。’80年代の後半には、僕が携わっていたスケート誌に広告を出稿したり、僕自身がスケーターとして注目を浴びたことで、『 RAD 』が積極的に記事にしてくれて、さらに人気が出ていった感じだね
『 RAD 』に掲載された insane の広告
ジェドが1988年にロンドンへ移り住んだのは、『 RAD 』でライターやイラストレーターとして働き出したのがきっかけと聞きましたが、どういった経緯で働くことになったのですか?
『 RAD 』では、ANARCHIC ADJUSTMENT を手がけたニック・フィリップもエディトリアル・デザイナーとして働いていましたよね?
その後、insane は Slam City Skates ( スラムシティスケーツ ) で扱われるようになります
ちょうどその頃には、アメリカでショーン・ステューシーが同じくボードカルチャーをバックボーンに Stussy ( ステューシー ) を設立して人気を博していましたが、彼から影響を受けたことはありましたか?
当時の僕は、スケートシーンのことやイギリスの一部のユースカルチャーにしか精通していなかったこともあって、insane を立ち上げた当初は Stussy の存在を知らなかったんだ。Slam City Skates の仕事をしていくなかで、ファッションカルチャーの人たちとの交流が生まれ、マイケル・コッペルマンやジェームズ・ルボンたちと知り合って Stussy の存在を知ることになっていくんだけど
マイケル・コッペルマン/1989年に自身のアパレルブランド、Gimmie Five ( ギミファイブ ) を設立し、その後、Stussy や SUPREME などの US ブランドをイギリスで展開した UK ストリートシーンのキーパーソン( 画像出典:gimme5 )
ジェームズ・ルボンって、’80年代にロンドンのユースカルチャーの拠点となった美容室、CUTS を創業した方ですよね?
そう。彼は CUTS を離れた後に映像の仕事に携わるようになっていて、Stussy UK を手がけていたマイケル・コッペルマンのために Stussy の映像も制作していたんだ。彼のオフィスは Slam City Skates のすぐ近くにあって、彼の兄であるマーク・ルボンが経営していた Crunch Productions ( クランチ プロダクション ) という制作会社も近くにあった。マークは’80年代初頭のロンドンのファッションシーンで一世を風靡したクリエイティブ集団「 BUFFALO ( バッファロー ) 」のメンバーだったこともあって、この Crunch Productions にはジュディ・ブレイムをはじめとするロンドンのファッションシーンのキーマンたちが多く出入りしていたんだ。僕にとってはここが、ファッションシーンの人たちとつながる社交場になっていたよ
ジェームズ・ルボン / パンク以降のロンドンのユースカルチャーシーンで中心的な役割を担った美容室「 CUTS」を創業。多くの熱狂的なファンを抱え、著名人たちもしばし訪れた。その様子は映画『 Steve, James and Cuts 』やマイケル・コッペルマンが発行元となった写真集『 CUTS 』にも収められている( 画像出典:INDEPENDENT )
ジュディ・ブレイム/イギリスのパンク・ファッション界の重鎮。『 HOUSE OF BEAUTY AND CULTURE 』のメンバーであると同時にレイペトリを中心としたクリエイティブ集団「 Buffalo 」のスタイリングに深く関わり、後世のストリート / モード両面に大きな影響を与えた( 画像出典:THE NEWYORK TIMES )
その当時、イギリスのスケーターとアメリカのスケーターを比較して、スタイルやファッションに違いを感じたりしましたか?
特に違いは感じなかったね。ただ、僕らイギリスのスケーターたちは単にアメリカのスケート文化を消費していたのではなく、イギリス独自のスケート文化を生み出していたんだ。先ほど話に挙がった ANARCHIC ADJUSTMENT なんかのブランドもそうした文化の中から生まれたものだと思っているよ
HOLMES や SILAS を立ち上げたソフィア・プランテラとの出会いと Slam City Skates を離れてからの活動
insane は Slam City Skatesで取り扱われるようになって、順調にブランドも成長していったのですか?
アーティストでは、例えば、どんな人たちが愛用してくれていたのですか?
ちなみに当時、insane はスケートブランドとして販売されていたんですか? それともアパレルブランドとして販売されていたんですか?
当時シーンで目立っていたスケーターたちをスポンサードしていたのですか?
友人たちを中心に insane のアイテムを提供していたんだけど、特によく着てくれていたのは、現在は PALACE ( パレス ) のクルーで、自身でも The Trilogy Tapes というコアなレコードレーベルを手がけているウィリアム・バンクヘッドだね。1991年にリリースした『 Mouse Is Pulling The Key 』というビデオタイトルのクレジットを見てもらうと、当時サポートしていたスケーターをチェックできるよ
ウィリアム・バンクヘッド / Mo’Wax でヴィジュアル・ディレクターとして DJ Shadow や UNKLE などのメインビジュアルを手がけ、現在は PALACE にアートワークを提供したり、The Trilogy Tapes を運営するなど、UK ストリートシーンに強い影響力を持つキーパーソン。SKATE THING さんとともに C.E のを手がける TOBY FELTWELL ( トビー・フェルトウェル ) さんとは、Mo’Wax のレーベルメイトだったこともあり、C.E のパーティなどにもゲストDJとして招かれている( 画像出典:flickr )
日本では1991年に藤原ヒロシさんが雑誌『 CUTIE 』の連載で紹介したことでブレイクしたのですが、その様子はロンドンにいたジェドには、どのように映っていましたか?
ロンドンでの売り上げもそれなりにあったんだけど、ヒロシが雑誌で紹介してくれてからの日本での売り上げは桁違いだった。そのおかげでセントラル・セント・マーチンズで服飾を専攻していたソフィア・プランテラという優れたデザイナーと、当時 Rough Trade で働いていたラッセル・ウォーターマン( 営業担当 )をスタッフとして招き入れることができたんだ
ソフィア・プランテラ/ insane を経て、Slam City Skates でラッセル・ウォーターマンとともに HOLMES ( ホームズ ) を設立。その後、一世を風靡したストリートブランド、SILAS ( サイラス ) を立ち上げ、現在は Aries ( アリーズ ) というブランドのデザイナーを務める( 画像出典:SEVENSTORE )
ちなみに日本では、LONDIS ( ロンディス ) や EM ( エム ) といったセレクトショップで取り扱われたのが最初なのですが、どういった経緯で扱われるようになったかご存知ですか?
ソフィアはラッセル・ウォーターマンとのちに HOLMES ( ホームズ ) や SILAS ( サイラス ) といった人気ブランドを立ち上げますが、当時からその才能には目を見張るものがあったのですか?
2人の新しいスタッフを迎え入れて以降の動きを教えていただけますか?
新しく入った2人と一緒に独立したのですか?
いや、離れたのは僕だけで学生時代の友人であるグラフィックデザイナーのアンディ・ホームズを含め、多くの友人は残ったよ。ソフィアも残ったけど、ばらくはTシャツを畳む業務だけだったようだね。その後、ソフィアはラッセルとともに革新的なブランド作りに集中して、多くの素晴らしいアーティストと共に Slam City Skates 内で HOLMS を立ち上げた。そして数年後、彼らは独立して SILAS を設立したんだ
最初期にリリースされた HOLMES のファーストTシャツ(左)と insane のオリジナルTシャツ
HOLMES のファーストコレクションが掲載された ZINE 兼カタログ
SILAS のキャラクターデザインを手がけたジェームス・ジャービスや、同じく UK のストリートシーンで人気を博したピート・ファウラーのポップな作風って、ジェドさんの影響を受けているのかなと思う部分もあるのですが、ご本人的にはいかがですか?
ジェームスは「 特に影響を受けてはいない 」と言っていたので何か影響を与えたということはないと思うけど、最近、一緒にエキシビションを開催したよ。彼は UK ブランドのコネクションやムーブメントを深く理解していて、すべてのクリエイティブな人々やブランドに様々な影響を与えているよね
SILAS で彼らが実現させたキャラクターのトイ化というのは、それよりもずっと前にジェドさんが insane で試みていますよね?
あの頃、僕が insane のキャラクターをぬいぐるみにして量産化しようとしたり、立体物を作って販売しようと考えたとき、周りからは「 スケートのアパレルメーカーがそんなモノを作っても売れない 」という冷ややかな目で見られていたんだ。その頃と比べると価値観が変化したのかもしれないけど、彼らがそれを成功させたのはスゴいと思うね
ジェドが量産を試みたサイのキャラクターのぬいぐるみ。残念ながら製品化はされず、カタログの表紙で使用されるのみとなった
Slam City Skates を離れてからは、どんな活動をしていたのですか?
Slam City Skates を離れてからは、ソーホーにあった FATBOY ( ファットボーイ ) という会社と一緒にコレクションを制作して、さまざまな展覧会でアイテムを発表していたね。’90年代半ばには、ボマ・ジャジャというスケート仲間と一緒にカムデンに「 Insane Skate Supplies 」というお店をオープンさせて、新しいデザイナーとコラボしたり、イギリス国内やヨーロッパへ商品の卸しをしていたんだ。Addict ( アディクト ) や Inner Circle ( インナーサークル ) や Raggy ( ラギー ) といったUKのスケーターブランドやストリートブランドの取り扱いなんかもスタートさせたね。
その中の1つ、CLOWN SKATEBOARDS ( クラウン スケートボード ) は、2000年にジェフ・ボードマンによって誕生したブランドなんだけど、ジェフは以前「 Insane Skate Supplies 」が取り扱う他のブランドに在籍していたため、90 年代後半にはよく一緒に集まってアイデアについて話し合っていたよ。また、店舗にはギャラリースペースも備えていたので、ラッセル・モーリスやマーク・フォースター、Etch やフェルナンド・エルビラといったアーティストがエキシビションを開催したよ
当時、ジェドが Insane Skate Supplies で取り扱っていた CLOWN SKATEBOARDS のロゴステッカー。グラフィックを担当したのは有名になる前のバンクシー
HEROIN SKATEBOARDS を手がけるアーティストの Mark Forster とジェドは、かつて「 Insane Skate Supplies 」で取り扱っていた「 SUPER HERO 」 というブランドを手掛けていた。SUPER HERO のロゴはジェドによるもので、こちらの90年代の日本代理店によるスウォッチには今や激レアとなった「 gorgeous 」やHowie B.の「 pussy foot 」と共にラインナップ
設立当初の Insane のコンセプトでもある “スケーターが手がけるアーティストブランド” という立ち位置を大切にしながら、ブランドの活動を続けたわけですね
その後イギリスでも、PALACE のようにスケートカルチャーをバックボーンにした、世界的に人気のあるブランドが誕生していますが、ジェドから見るとそうしたブランドはどのように映りますか?
insane も’90年代初頭から、PALACE や SUPREME が実践してきたような「 アートの感性をいかにしてプロダクトに取り入れるか 」というビジネスのあり方を模索してきたんだ。デザインを通じて、新しい世界を創造することは僕の長年の夢でもあるから、insane も insane らしいユニークなやり方で彼らのブランドのように大きく成長させていきたいと思っているよ。
それと PALACE については、ウィリアム・バンクヘッドをはじめ、彼らの発信するユーモアのセンスが非常に優れていることに感心するね。彼らは、僕が子どもの頃に Benji Boards に強い影響を受けたように、『 RAD 』やその周辺カルチャーに強い影響を受けているから、ANARCHIC ADJUSTMENT とコラボをしたりと、面白い試みにもたくさん挑戦しているしね
2020年にリリースされた PALACE と ANARCHIC ADJUSTMENT のコラボアイテム
では、最後にこれからの活動や目標について教えてもらえますか?
insane を始めた当時の想いは今も冷めることなく僕の中にあり続けていて、insane はこれからもまだまだ発展していけるブランドだと思っているよ。来年東京でUKのアーティストたちをフューチャーしたエキシビションをキュレーションする話などもあがっているんだ。これからもユニークな発想のもと、革新的なプロダクトを作り、たくさんの人たちとパートナーシップを結びながら insane の世界観を世界に発信していきたいね
本日はありがとうございました!
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取材協力 / 資料提供:
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WISH LESS gallery で開催されていたジェドの作品を公開
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