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NITRO MICROPHONE UNDERGROUND の XBS 氏と振り返る!nitraid ( ナイトレイド ) のブランドヒストリーと《あんとき》のストリ-トドリーム

《 あんときのストリート 》を発掘|MIMIC ( ミミック )

《あんとき》のストリートシーンに爆発的ムーブメントを巻き起こした伝説のヒップホップグループ NITRO MICROPHONE UNDERGROUND( ニトロ・マイクロフォン・アンダーグラウンド )。2012年の活動停止以降、その才能を惜しむ声は随所で高まっていたが、2019年にはそうした期待に応えるかのようにグループの再始動を発表。

翌年には9年ぶりのニューシングル『 歩く TOKYO 』もリリースし、昨年には日本のヒップホップ史に残る大名盤『 NITRO MICROPHONE UNDERGROUND 』を豪華7インチボックスセットや12年ぶりとなるフルアルバム『 SE7EN 』をリリースし、シーンに熱気を呼び込んでいる。

全ヒップホップ・リスナーが首を縦に振る名曲  『 NITRO MICROPHONE UNDERGROUND 』を含む、数々の無敵のマイクリレーが収録された豪華7インチボックスセット ( 画像引用:Manhattan Records )

1年ぶりの新曲『 FIRE 』から『 Choose One 』『 ケモノミチ 』と1ヶ月で怒涛の3曲リリースを敢行した NITRO MICROPHONE UNDERGROUND 12年ぶりとなるフルアルバム 『 SE7EN

そこで今回の MIMIC では、そのニトロのメンバーが手がけ、《あんとき》のストリートで圧倒的な人気を誇ったアパレルブランド nitraid(ナイトレイド)にフォーカス。主宰者の XBS 氏をゲストに迎え、ブランドの立ち上げの経緯やその盛り上がり、そして今だからこそ話せるブランド終了時のエピソードに至るまで、お話を伺ってきました。

XBS(エックスビーエス)
NITRO MICROPHONE UNDERGROUND のメンバーとしての活動と並行して、2001年にメンバーの GORE-TEX 氏、S-WORD 氏、グラフィックアーティストの EIGHT( エイト)氏とともにアパレルブランド「 nitrow( ナイトロウ )」を始動。2005年からはブランド名を「 nitraid( ナイトレイド )」に変更し、一大ブームを巻き起こした “ REAL WEED ” 柄を筆頭に数々の人気アイテムをリリースし、シーンに一時代を築く。

2013年のブランド終了以降は、『 AVOBE MAGAZINE( アバブ マガジン )』や『 FLY( フライ )』といったバスケットボールマガジンでクリエイティブディレクターを務め、フォトグラファーや「 TOKYO 23 」のオリジナルアパレルのデザイナーとしても活躍。2022年には新たにバスフィッシングブランド「 EXB4SSエックスビーフォーエスエス )」をローンチし、釣り師としてバスフィッシングトーナメント「 JAPAN B.A.S.S. NATION バスオブジャパン 」にも参戦している

裏原ファッションと宇田川ヒップホップ文化の双方から影響を受けたブランド設立前

MIMIC

ボクらは MIMIC の記事を制作するにあたって、《あんとき》のストリートで人気を博していたブランドを調べる機会も多いんですが、実は nitraid の情報って意外とネット上にアーカイブされていなくて

XBS

ですよね。唯一探れるとしたら、僕が管理してたフェイスブックのページがちょっと残ってるぐらいかも。ブランドの公式ホームページも閉じてしまっているから

MIMIC

そういった状況もあってか、今のデジタル世代の若いヒップホップ好きの子たちには、ニトロの方たちがアパレルブランドをやっていたという事実を知らない子もいるみたいでして

XBS

彼らが幼稚園児くらいの出来事だからね(笑)

MIMIC

というわけで、今回のインタビューではネット上にしっかりとした情報を残す意味でも、《あんとき》のストリートで一時代を築き上げた nitraid のブランドヒストリーついてのお話をお聞きできればと考えています。

では、さっそくなのですが、まずは基本的な情報として XBS さんの生年月日からお聞きしてもよろしいでしょうか?

XBS

1976年の3月15日生まれです。ニトロのメンバーで言うと、一つ上の学年に DELI( デリ )、MACKA-CHIN( マッカチン )、DABO( ダボ )がいて、同学年に GORE-TEX( ゴアテックス )、SUIKEN( スイケン )、S-WORD( スウォード )、二つ下の学年に BIGZAM( ビグザム )がいますね。昭和は学年で認識し合う世代だから、一つ違うと全然立ち位置も違うんだよね(笑)

MIMIC

出身は東京ですよね

XBS

駒沢生まれで、中1のときに足立区に引っ越しました。両親が目黒と駒沢だったので田舎もないし、東京23区外に住んだことがないんですよね

MIMIC

やっぱりシティボーイなんですね

XBS

生い立ちの話をするとよく言われます。あ、俺、シティボーイなんだって(笑)

MIMIC

ファッションとか音楽に興味を持ち始めたのは、いつからですか?

XBS

高校ですね。進学した高校で1年海外に留学していたマッカさん ( = MACKA-CHIN ) と同級生になったことがきっかけで、興味を持つようになりました

MIMIC

MACKA-CHIN さんとは同じ高校だったのですか?

XBS

ええ。マッカさんは、あの “やんごとなき方たち” が通う有名な私学の中学出身なのですが、僕らはチーマー文化の最後の世代ということで、私学の人たちの華やかなお坊ちゃまコミュニティに憧れていたところがあり。

なので、マッカさんにそういった私学の集まりに連れて行ってもらったりして、文化的な刺激を受けていました。一方で、彼らはとんでもなく高額な革ジャンやエンジニアブーツをバンバン買えちゃう環境にいる人たちだったんで、お金のない僕は劣等感も刺激されていました(笑)

MIMIC

MACKA-CHIN さんはその後、STUSSY( ステューシー )の系列店で店長も務めていらっしゃいましたが、やっぱり当時からオシャレだったんですか?

XBS

私学にいたり留学していた分、やっぱり触れてきた文化が違うから、ファッションだけじゃなく、もちろん音楽にも詳しかったですよ。いろんな遊びを教えてくれる、身近なお兄さんみたいな存在でした。

僕らは足立・荒川・台東エリアの子たちが通う、5学区の都立高校だったので、都心の情報には疎かったんですよ。そんななかで、マッカさんは当時から高校にすげえデカいラジカセとか持ってきたりしてたもん

MIMIC

そのエリアの方たちがファッションや文化に触れるとなると、アメ横が身近な場所になるのですか?

XBS

そうですね、アメ横はそれこそ中学校の頃から通っていたところなので、自分のルーツとしては大きい存在で。大学時代も長らく中田商店で働いていて、革ジャン部門の長にまでのぼりつめたぐらいですから(笑)。

大学は青学 ( =青山学院大学 ) の二部に通っていたのですが、昼間は中田商店で働いて、夕方になったら大学に行って、授業が終わると Manhattan Records ( マンハッタンレコード ) の三階の事務所にたまるっていうのが当時のルーティーンでした

MIMIC

じゃあ、大学生の頃にはもうヒップホップとリンクしていたんですね

XBS

はい。高校の文化祭でマッカさんと MICROPHONE PAGER( マイクロフォン・ページャー )のカバーをしたのが最初かな。これはマッカさんも話したくないエピソードだと思うけど(笑)。

ちょうど、チーマー文化からヒップホップやダンサーといったクラブ文化へ移行した頃で、高校生主催のパーティーが隆盛を極めていた時代。LAMP EYE( ランプアイ )のメンバーにもマッカさんの1つ上に RINO( リノ )くんがいて、ヨシピーこと GAMA が足立区出身で地元が同じだったんで、高校卒業したあたりからつながりが生まれていました。S-WORD は同じ青学に通っていたんで、大学に入学してまもなく知り合いましたね

MICROPHONE PAGER の「 七転八倒 」への客演でシーンに登場後、1995年にEP『 下克上 』をリリース。雷のメンバーや Zeebra( ジブラ )、Dev Large( デヴ・ラージ )を招いてリリースされた「 証言 」は日本ヒップホップ史に残る不朽の名作

それと当時の原宿や渋谷のお店には、ヒップホップ関係の人たちが多く働いていました。マッカさんは RULE( ルール )っていう STUSSY の系列店から Fat Beats( ファットビーツ )に移って、その近くにあった Blues( ブルース )っていうスニーカー屋にはハジメ( DJ HAZIME )が超態度の悪い店員として働いていたし(笑)。S-WORD は大学を辞めた後、BLACKANNY( ブラックアニー )で働いていたのかな。GORE-TEX も MURO( ムロ )くんがお店をやる前は STILL DIGGIN’( スティルディギン )で働いていたし。

なので、当時は知り合いが働いているお店をグルグル回ってたむろするのが、みんなのお決まりになっていました。Channel 5( チャンネル・ファイブ )もそうして交流を深めていく中で既に活動していたグループでした

DABO、SUIKEN、K-BOMB( ケイ・ボム )、BIGGA HEAD、DJ HAZIME で結成された Channel 5。動画は2004年にリリースされた DJ HAZIME の『 AIN’T NO STOPPIN’ THE DJ 』に収録された再結成曲『 Return Of The Channel 5 Feat.DABO,SUIKEN,K-BOMB 』

MIMIC

洋服屋のバックボーンをお持ちの方が多いんですね

XBS

ショップ店員が花形な時代だったし、まずはショップ店員から始めないと何も始まらないような時代でしたしね。そこから目立っていった人が事務所に引き上げられて、出世していくみたいな仕組みでしたよね

MIMIC

確かに。今のようにシーンに自由にエントリーできるような時代じゃなくて、ちゃんと先輩たちにフックアップしてもらうというプロセスを踏んでいかないと有名になれない時代というか

XBS

そうそう。特に僕の中では HECTIC( ヘクティク )が憧れの存在でしたね。真柄さんの下でデザインをやっていた CICCIO( チッチョ )くんは、SUIKEN と地元が同じだったこともあり、原宿の先輩としてすごく可愛がってくれました。そこから HECTIC の事務所に遊びに行かせてもらえるようになって、真柄さんとも挨拶するような間柄に進展していきました

MIMIC

ヒップホップ、レゲエ、スケート、ダンス、古着と、様々なストリートカルチャーとリンクしており、《あんとき》のストリートにおいて、最も遊び心に溢れ、懐深いブランドだったのが HECTIC だったと感じています

XBS

そうですよね。いろいろなジャンルの長が集結していたブランドでしたよね。真柄さんは古着の長だし、スケートでは YOPPI( ヨッピー )くん、ダンスでは NORI( ノリ )くん、グラフィックでは CICCIO くんと AKEEM( アキーム )くんでしょ。タレント揃いだし、事務所も秘密基地みたいで、すごいカッコ良かったですよね

MIMIC

《あんとき》に取材で HECTIC にお伺いしても、XBS さんと GORE-TEX さんのお名前はよくお聞きしました

XBS

トラ( = GORE-TEX )は NIGO さんともつながっていたし、オモチャ好きで BOUNTY HUNTER( バウンティハンター )のヒカルさんとも仲が良かったから、僕よりも全然顔が広かったですよね。僕は生粋の真柄っ子で HECTIC がメインって感じ。マッカさんも Fat Beats の上司が真柄さんだったんで、そういった関係性がずっと続いていましたよ

ニューヨークにあった伝説のレコードショップ、Fat Beats。日本の支店は、HECTIC を立ち上げた真柄氏と Supreme を日本で取り扱っていた ONEGRAM( ワングラム )を立ち上げた大村健一氏が運営していた ( 画像引用:foursquare )

MIMIC

ということは、ONEGRAM の大村さんも上司だったわけですよね?

XBS

そう。だから SOPH.( ソフ )の清永さんが ONEGRAM で働いていた時代も知っているみたいで、マッカさんは清永さんとも顔見知りでしたよ

MIMIC

そのような裏原宿界隈の方々とのつながりがある一方で、渋谷・宇田川町のヒップホップカルチャーとのつながりについても教えてください

XBS

ニトロを始める前から DABO は、マンハッタンレコードの会社が運営する REALITY RECORDS ( リアリティレコード ) からソロをリリースしていたし、既に客演でメジャーレーベルでもデビューしていたマッカさんのソロプロジェクトも REALITY RECORDS で進行していたし、当時の宇田川町はレコード村と呼ばれていたくらいたくさんのレコード屋さんがあって、日々のルーティンの中にマンハッタンレコードの3Fの倉庫に溜まってることが多かったし、マンハッタンレコードとは一体化して活動していたって感じですね。

マンハッタンもマンハッタン・クロージングという洋服部門があって、僕らも「 いいっすか 」って感じでプロモーションで洋服をもらったりしていたのですが、やっぱりインポートがメインの宇田川町のファッションカルチャーとドメスティックがメインの原宿カルチャーではまだまだ隔たりがありましたね。その後、どんどんクロスオーバーしていくことになるんだろうけど

MIMIC

ニトロ結成の流れは、どのようなものだったのですか?

XBS

平日の水曜日にニトロの前身とも言えるような20人くらいのメンバーで自分たちのイベントを CAVE( ケイブ )で、やらせてもらっていたのですが、社会人になって就職する人や脱退する人など、いろいろ淘汰されていくなかで最後に残ったのがニトロの原型となるメンバーでしたね

MIMIC

そこからデビューを果たして、いきなり売れたと思うのですが、周りの反応で変わってきた部分ってありますか?

XBS

いや、全然 (笑)。やっぱり永遠の後輩っていうか。多分、実感を得たのはもっと後なんじゃないかな。僕らの時代はとにかくメジャーデビューを目指した時代だったから、マンハッタンの REALITY RECORDS でインディーデビューしたら、次はメジャーに移籍してナンボという時代。

元々ニトロのプロジェクトはマッカさんのソロプロジェクトからスタートしたものだったし、Def Jam Japan( デフ・ジャム・ジャパン )からのメジャーデビューも DABO と S-WORD のソロデビューが先に決まっていたなかで、インディーでアルバム『 NITRO MICROPHONE UNDERGROUND 』が2万枚完売したから「 じゃあニトロもやりましょうか 」 という感じだったので、少なくとも僕はまだまだガムシャラでしたね

MIMIC

ジャケットのデザインは CICCIO さんが担当されていましたよね

XBS

ファーストEPの『 NITRO WORKS( ニトロワークス )』 や REALITY RECORDS から発売したインディー盤のデビューアルバムまでのデザインは CICCIO くんが担当してくれました。Def Jam に移ったときに桜井理子(※1)さんがアメリカを代表するヒップホップ・フォトグラファーの B+( ビー・プラス )を連れて来て、アー写やPVは彼が撮影してくれました

※1 ’90年代を人気を博したラジオ番組『 Hip Hop Journey – Da Cypher – 』の司会や企画立案を務め、ユニバーサルミュージック傘下に「 Def Jam Japan 」を設立したヒップホップ姉貴。ICU時代にはライムスターなども在籍した早稲田大学の名門音楽サークル「 ギャラクシー 」に在籍

CICCIO さんがアートワークを手がけた『 Nitro Works 』( 画像引用:discogs )

B+ が手がけた説明不要の名作「 NITRO MICROPHONE UNDERGROUND 」のPV

HECTIC に憧れ nitrow を設立!その後、マンハッタンレコードからの独立を機に nitraid に改名

MIMIC

その後、nitraid の前身となる nitrow を2001年に始動させますが、もうその頃にはストリートブランドと言われる業界も成熟していました。ニトロとして音楽面の人気が絶頂だった最中、あえてアパレルブランドを始めようとしたきっかけを教えていただけますか?

XBS

当時のマンハッタンレコードには、MURO くんが手がける INCREDIBLE RECORDS( インクレディブル・レコード )と僕らが在籍していた REALITY RECORDS という2つレーベルがあったんだけど、在籍するアーティストの人数やリリースも増えてきたので、REALITY RECORDS だけで事務所を借りようということになったんです。そのタイミングで、マンハッタンレコードの母体であるレキシントンという会社に「 アパレルブランドもやらせてほしい 」とお願いしました

MIMIC

それは HECTIC の影響があったからですか?

XBS

そうです。真柄さんや CICCIO くん、YOPPI くんたち先輩の仕事ぶりを見ていたので、僕らでもできるんじゃないかという自信もありました。当時のマンハッタンにはインポート物のセレクトのほかに、PRODUCT( プロダクト )というオリジナルブランドを展開する部署もあったという面も追い風になりました

MIMIC

スタート時のメンバーを教えていただけますか?

XBS

最初は俺と GORE-TEX とグラッフィックデザイナーの EIGHT の3人です。EIGHT は MURO くんのジャケットのデザインを手がけていたし、ヒップホップと交わる前は BACK DROP BOMB( バック・ドロップ・ボム )とかのジャケットも作っていて、実力的に申し分ないデザイナーでした。

まもなく駒場に結構バビった感じのかなり広い事務所を借りて、レーベルとアパレルを運営することになったのですが、そのタイミングで S-WORD も参加することになり、4人で始めることになったのが nitrow です。

MIMIC

《あんとき》のブランドの中では後発にあたる時期なので競合も多かったと思うのですが、皆様の人気という後押しもあり、ブランドの提案自体は比較的スムーズに通ったのですか?

XBS

そうですね。それもこれもマンハッタンの創業者である平川 ( 雅夫 ) さんのおかげでしかないですね。今はもうお亡くなりになられてしまったのですが、平川さんがいなかったら、今の僕らはなかったと思います。だって今の僕の年齢くらいのときに、二十歳そこそこのガキにブランドをやらせる機会を与えてくれるって相当なことだったと思うんですよね。

平川さんは DEPT ( デプト ) の永井誠治さんや HYSTERIC GLAMOUR ( ヒステリックグラマー ) の北村ノブ ( 信彦 ) さんとも仲が良かったので、アパレルを始めるってなったときに「 俺は服のことはわかんねぇから誠治んとこ、行くぞ!」って、永井さんの自宅にも連れて行ってくれて。永井さんもその頃はビンビンだったから関西弁で「 お前ら、やれんのか? 」みたいな感じで、僕らも「 はい!やります! 」って(笑)。そんな感じで周りの人たちにフォローしていただきながらスタートさせていくことになりました


渋谷・宇田川町のレコ屋カルチャーを築いたキーパーソンである平川雅夫氏。’80年に渋谷警察署裏に廃盤専門店として「 Manhattan Record 」をオープンさせ、その後、’93年に宇田川町に移転し一時代を築いた ( 画像引用:渋谷文化プロジェクト )

MIMIC

卸先を見るとマンハッタンというより、比較的 HECTIC 寄りな卸先でしたよね

XBS

やっぱり、マンハッタンの背景を借りて卸すとなるとインポート物をメインで扱う地方のヒップホップショップになるんですよね。でも、僕らが目指していたのは HECTIC だったので、裏原のブランドを取り扱っているようなセレクトショップに卸したいと。

そこで真柄さんに相談して卸先を紹介してもらい、地方のクラブイベントでニトロを呼んでくれそうなヒップホップ系のショップと、裏原のブランドをメインに扱っているファッション系のショップを半々くらいの割合にして卸すことになったんです

MIMIC

nitraid へ移行するきっかけを教えていただけますか?

XBS

アパレルと並行して取り組んでいた音楽部門が NITRICH( ナイトリッチ )としてマンハッタンから独立することになったんです。アパレルもかなりの好条件でやらせてもらっていたのですが、やっぱり自分たちでやりたいという気持ちも強くて。

ちょうどその頃、トラが知り合いのIT系の経営者と一緒に Chop’n’Roll( チョップンロール )というセレクトショップを始めるという話になり、僕もその方と会うことになったんです。そこで「 資金調達もできるし、旗艦店も考えられますよ 」という話をいただいて。そこからアパレル事業の独立が加速することになり、ブランド名を変更してリ・スタートすることになりました

MIMIC

どうしてブランド名を変更しようと思ったのですか?

XBS

NITRO SNOWBOARDS( ナイトロ・スノーボード )があったので、nitrow では商標を取れなかったんですよ。独立するからには、ちゃんと商標を取りたかったので、nitraid という造語を新たに作りました。

MIMIC

nitraid といえば、オリジナル迷彩のイメージが強いんですが、やっぱり一番人気は “ REAL WEED( リアルウィード )” ですよね?

XBS

もう圧倒的に。今でも欲しがっている人がいるんじゃないかというぐらい人気でした。だから色を変えたりして、トータルで4回くらいリリースしたはずです

人気の “REAL WEED” をまとった 当時の nitraid のダウンジャケット

MIMIC

モザイク迷彩も人気でしたよね

XBS

あれは AIR FORCE 1( エアフォースワン )の25周年記念のときに、トラと一緒にオリジナルモデルを作ることになり “ REAL WEED ” の AIR FORCE 1 を作ろうとしたんだけど、当然 NIKE( ナイキ )から NG が出て(笑)。それでモザイク処理をして誕生したのが、あのモザイク迷彩なんです


「 世界中から選ばれた18人のイノベーターが手がける AIR FORCE 1 」がコンセプトの 1WORLD( ワンワールド )。その中の1足としてリリースされた GORE-TEX 氏によるモザイク迷彩の AIR FORCE 1 ( 画像引用:SKIT )

デビュー前から生まれた NIKE とのつながり!数多くのコラボモデルをリリースするも、その裏ではアカウントを維持する苦労も

MIMIC

NIKE との接点も外せない要素かと思うのですが、最初の接点でいうとニトロがデビューするときに製作した幻のリフレクター AIR FORCE 1 からですか?

XBS

ですね。結局はリリースできなかったのですが、中田商店の後も上野で働いていたこともあり、その時の縁で山男フットギアの方に NIKE の方を紹介していただきました。

ちょうどその頃は、高見さんと凛太郎のインタビュー記事 にもあったように、東京プロモーションという部署が NIKE で立ち上がったばかりで、NIKE もストリートで何かしたい、僕らもニトロとして NIKE とタッグを組みたいというタイミングが重なった時期でした

AIR FORCE I 40周年記念! NIKEとHECTICによる伝説のプロジェクト「 1LOVE 」を掘り起こせ!【 NIKE編 】

MIMIC

担当は凛太郎さんですか?

XBS

はい、そうです。凛太郎からヒップホップのストーリーを持っている AIR FORCE 1 で新しい試みに挑戦しませんか、と声かけていただきました

MIMIC

デビュー前にコラボシューズを作らせてくれるってスゴいですね

XBS

当時の NIKE は無双状態で、タイミングが本当に良かったのだと思います。あの記事にもあったように色々な人が色付けなどの企画に携わっていましたし、僕もトラと一緒にフットウエアのデザイン担当だったマーカスのデスクへ行って、線画を見ながら塗り絵感覚で色付けさせてもらってました。

実は CO.JP の AIR FORCE 1 ウィートのローカットとか、AIR ZOOM SEISMIC のオレンジ/ロイヤルのオランダカラーは僕が色づけしたモデルなんですよね

AIR ZOOM SEISMIC ( 画像引用:ヤフオク )

AIR FORCE 1 “WHEAT MOCHA” ( 画像引用:SNKRDUNK )

MIMIC

nitraid の旗艦店だった AGITO(アギト)は NIKE のトップアカウントでもあったように、ブランドとしてもつながりは強かったですよね

XBS

トップアカウントを開設できたのは高見さんに裏技を使ってもらったところも大きかったのですが(笑)、でもトップアカウントになったからスニーカーが売れるってわけでもないので、アカウントを維持するのも大変な苦労でした

MIMIC

トップアカウントを維持するメリットって具体的にどのようなことがあるのですか?

XBS

もちろん良いスニーカーが入荷しましたし、たしかトップアカウントじゃないと、別注モデルを作ることができないんじゃなかったかな。NIKE は別注モデルのデザイン費を支払ってくれるわけではないので、その別注モデルをアカウントに卸すから、そのセールスで儲けてくださいというのが基本方針。

でも、アカウントを維持するにはそれなりのセールスが必要だから、会社のスタッフはもちろん、僕自身もセールスに貢献するために週一足くらいのペースで購入していました(笑)

MIMIC

AIR FORCE 1 の25周年の後には、’09年にニトロ10周年のベストアルバムがリリースされたタイミングで黒金の AIR FORCE 1 もリリースされましたよね?

NITRO MICROPHONE UNDERGROUND|祝・再始動! ニトロマイクロフォン・アンダーグラウンド の足元を飾った別注 AIR FORCE 1 ( エア・フォースワン )

XBS

あの当時、nitraid で黒金のアイテムをよくリリースしていたのと、10周年のアニバーサリー企画に黒金はちょうどいいカラーだったこともあり、トラと相談しながら作った一足ですね。エレファントパターンを採用しているのが特徴なのですが、スニーカーの素材としては硬すぎるのがちょっと難点だったかも(笑)。

ニトロのメンバーには、ヒールにニトロのロゴをレーザー加工したモデルが配られたのですが、実は色違いで NIKE が関係者用に黒銀モデルを極少量だけ製作してくれて、それは関係者しか持っていない激レアなモデルになりました

MIMIC

XBS さんが高見さんたちと出演されていた『 開運!なんでも鑑定団 』 のスニーカー鑑定企画では、JORDAN 5 RETRO T23 TOKYO もXBS さんが関わられて誕生したシューズだと聞いたのですが

XBS

nitraid で一時期、東京23区とジョーダンの23をかけた「 Special District Tokyo23( スペシャルディストリクト・トウキョウ・トゥウェンティスリー )」というバスケラインをやっていたことがあったのですが、その名を使ってジョーダンブランドがサポートしているパリのストリートバスケの大会 「 Quai 54(クアイ・フィフティフォー) 」のコンセプトを借りる形で、東京版のストリートバスケの大会を開催しようとしたのがきっかけですね。

結局、大会自体は雨の影響で中止になってしまったのですが、レガシーモデルとしてあのシューズはリリースされました

当時の NIKE の担当者がサイズ発注でミスをし、大きいサイズが全然存在していないという裏話も。そのため10や11といった人気のサイズでは余計にプレミア化しているんだそう ( 画像引用:SNKRDUNK )

こちららそのフライヤー。MVPの商品が JORDAN 5 RETRO T23 TOKYO となっている

MIMIC

ということは、NIKE とはデビュー時のプロモサンプルに始まり、2ndアルバムのリリース時に作った DELTA FORCE( デルタフォース )、AIR FORCE 1 25周年のときのモザイク迷彩、ニトロ10周年のときの黒金の AIR FORCE 1、そして AIR JORDAN 5 の T23 と、数多くのコラボレートを手がけたのですね

XBS

あまり知られてないのですが、それに加えて NIKE のフットサルシューズ、GATO( ガトー )で XBS 名義でコラボモデルをリリースしています。あらためて振り返ると、確かに結構な数をリリースさせてもらってますね

フットサルとストリートカルチャーの融合を目的とした「 WFC( ワールドフットボールコレクティブ )」というプレミアムモデルの一足としてリリースされたXBS 氏のインスピレーションモデル ( 画像引用:Sneaker Resource )

今だからこそ話せる nitraid 終焉の話!もしも時計の針を巻き戻せるなら、どこに戻ってやり直したい?

MIMIC

では、ここからは nitraid 終了に至るまでのお話を聞かせていただければと思うのですが、’00年代の後半くらいにはストリートシーンがビジネス的に厳しくなってきて、結構な数のブランドがなくなっていました

XBS

そうですね。僕の記憶だとリーマンショックのあった’08年くらいが転機で、そこから一気に厳しくなった印象ですね。地方で取り扱ってくれるお店もどんどん減ってきたので、まずはブランドの地盤を固めるためにも、地方のショップを守る “ネットワーク通販” という手法をスタートさせたんですよ

MIMIC

それはどのような方法だったのですか?

XBS

雑誌などに掲載する nitraid の問い合わせ先は、ブランドを代表して AGITO の一店舗しか掲載できないのですが、例えば、静岡県の人から AGITO に通販のオーダーが入ったら、静岡県にある nitraid の卸先に連絡して「 手数料 20% いただきますが、この通販のオーダーを受注しますか?」とお伺いを立てるんです。

もちろん断ることもできますが、受注すればお客さんとの直接的な関係が生まれて、実際にお店に来店してくれるような顧客獲得につながる可能性があります。地方のショップのことをここまで考えて経営していたブランドは他になかったので、地方の取引先からは喜ばれていたと思います

MIMIC

その頃は EC への注目が高まっている時期でもあり ZOZOTOWN に出店するブランドも多かったですよね

XBS

いや、まさにそこなんですよ。当時は自分たちのコントロールが効かない巨大な小売の存在が怖かったし、そもそも ZOZOTOWN に出店したら地方店が死んでしまうと思っていたので、手を出しませんでした。あくまで地方店を応援するというスタンスだったので。

でも、もしZOZOTOWN に出店していたら、今とは違う結果になっていたかもしれないと今では思います

MIMIC

それ以外に今だからこそ感じる、こうしておけばよかったという点はありますか?

XBS

ファッションは常に新しいものを提案していくことが仕事だと思うんですけど、僕らは普遍的なファッション、例えば、無地Tが売れるようなシーンを作りたかったから、すごく屈強で肉厚なボディのTシャツを作っていました。でも、今考えると、そのこだわりってお客さんにきちんと届いていたのかな?って。

もちろん届いていたなら、高い原価で作っていた意味はあるんですけど、そうじゃないなら単なる自己満だったんじゃなかなって。多くのブランドはTシャツの回転率で儲けるわけだから、本来は毎シーズン購入してもらえるように、頑丈過ぎないTシャツを作った方が儲けという部分では正しかったりもするわけで

MIMIC

伝わらなければ、存在していないことと同じですもんね。ボクらはよく地方のリサイクルショップで《あんとき》のストリートブランドを発掘しているのですが「 nitraid のTシャツって、10年以上経っているのにボディは全然クタってないし、プリントもしっかり残っているよね 」って話をよくするので、少なくても10年後のボクたちには伝わっています (笑)

XBS

他にも話題性ありきで採算の取れないようなアイテムをリリースしたり、売上が落ちたときも、本来であれば展示会の規模を縮小して身の丈をわきまえた運営にすべきなのに、それをやってしまったら「 勢いが落ちているんじゃないか 」という噂が広まって、オーダーが減ってしまう恐れもありました。今考えると色々な面で張らなくていい見栄を張り続けてしまったんだろうと思いますね

MIMIC

毎シーズンの型数もそれなりにあったわけですよね?

XBS

年に2回展示会をやって180くらいの型数を作っていました。そのうち150くらいを僕が作っていたので、クリエイティブな作業もどんどんルーティーン化してしまい、後半は「 この仕事って本当に好きなんだっけ? 」と悩んでいた部分も正直ありました

MIMIC

真柄さんたち先輩に相談することはなかったのですか?

XBS

もしかしたら、同じような悩みを抱えていたかもしれないけど、お互い口にすることはなかったですね。やっぱり、裏原には裏原ブランドのグループがあってそこは連携していたと思うのですが、僕らはどこにも属さないインディペンデントなブランドだったので。その分、舐められちゃいけないという気持ちが強かったから、変に虚勢を張っていた部分があったと思います

続きは切り取り線をなぞってね!

資金繰りの苦労・倒産・そして返済の原資獲得のための意外な取り組みとは?

MIMIC

その裏原ブランドも HECTIC がワールドに、A BATHING APE が I.T に、とインディペンデントな存在から大手の企業の傘下に入るなど《あんとき》とは違うフェーズに入っていきました。先ほど nitraid もリーマンショックを機に厳しさが増したとお聞きしましたが

XBS

はい、そのくらいのタイミングから消化率が悪くなって、銀行に追加融資をお願いする頻度も高くなっていきました。やがて返済も止めるようになってしまい、最後の1年は本当に苦しかったです。冬物になると、月の支払いが最大で5000万円くらいあったので、月末になると業者さんに「 スミマセン、ちょっと待ってもらえますか 」ってリスケのお願いの電話して。月末を迎えるのが本当に苦痛でした

MIMIC

その頃の運営体制は、直営店に AGITO があって、その他、ブランド運営に4、5人のスタッフがいらっしゃるという規模感ですか?

XBS

ディレクターや生産管理、出荷担当やプレスといった人員に加え、別会社で通販や営業の機能を支えるバックオフィスの人員も強化していたので、全部で20人くらいの従業員を抱えていました

MIMIC

なかなかの大所帯だったのですね。そのマネージメントに加え、在庫とキャシュのバランスを見ながら商品企画もして

XBS

共同経営者が元々ITの出身で経営もできた方なので、いろいろアドバイスを受けながらやっていたのですが、数字と向き合うのが得意ではない中で、最終判断が自分というのは本当に大変でした。

共同経営者は真っ当な業界から来た方なのでストリートのカルチャーや習慣を理解しようと、お互い歩み寄る形で進めてきたのですが、結果として僕が成長しきれずにビジネスとして成立しなくなってしまいました

MIMIC

最後はどのような結末を迎えたんですか?

XBS

倒産したのが春先なのですが、それまで身売り先を見つけようといろいろ探したのですが、結局、見つからず……。破産手続きをして、裁判所で破産管財人や弁護士、債権者が集まってという感じですね

MIMIC

債権者のほとんどは、銀行と業者さんですか?

XBS

そうですね。半々くらいでした。在庫もいっぱい残っていたのですが、破産管財人に渡したら二束三文で変なところに売られてしまい、返済原資を増やせないと思い、破産管財人の管理のもと、ヤフオク!に1年間オフィシャル出品をして返済の原資を作ったりもしました

MIMIC

えっ!XBSさんが直々に出品していたんですか?

XBS

はい。押上にオフィスを借りて、1年間そこに毎日出勤して、出品から発送までを一人で担当していました。そこでは、たしか2000万円くらい売り上げることができたと思います

MIMIC

もしも時計の針を巻き戻すことができたら、どこに戻ってやり直したいと思いますか?

XBS

長としていろんなことを1人で背負いすぎてしまったことを後悔しているので、ブランドを始めるときですね。自分が代表にはならないと思います。でも、社長業をやったことが現在の礎にもなっているし、もちろん全部が無駄だったとは思っていません。

一時期は表舞台に出るのはもうやめようと思っていた時期もあったのですが、誰もができない経験を積めたことを強みにしようと切り替えられるようになってからは、不思議とストレスも感じなくなりました。

atmos の企画でやった HOKA のタイアップが、倒産後に nitraid について語った初めてのタイミングだったのですが、今井( タカシ )くんが HOKA の担当だったこともあり、これまで語ることのなかった突っ込んだ話をしました。

倒産して本当にいろいろな方に迷惑をかけてしまったので、これまであまり語ることはなかったのですが、あそこで喋ってから自分の中でも少し意識の変化があって。どん底を味わった分、今は多少のことでは動じないぐらいの強さを身につけられたと思っています


NITRO MICROPHONE UNDERGROUND・XBSが語る「 NITRAID 」と当時の原宿

MIMIC

今日はいろいろなエピソードをお聞かせいただき、ありがとうござました!

XBS さんの最新情報は各リンク先から

動画接客ツール ザッピング で投稿