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AIR FORCE I 40周年記念! NIKEとHECTICによる伝説のプロジェクト「 1LOVE 」を掘り起こせ!【 NIKE編 】

《 あんときのストリート 》を発掘|MIMIC ( ミミック )

AIR FORCE I が生誕40周年を迎えた今だからこそお届けしたい、NIKE と realmadHECTIC による伝説のプロジェクト「 1LOVE 」を掘り起こすスペシャル 企画。AIR FORCE I の25周年を記念して2007年に1年間限定でオープンしたコンセプトストア「 1LOVE 」について、NIKE と realmadHECTIC、2つの視点から振り返っていきます。

前編となる【 HECTIC 編 】では、真柄尚武さんと吉﨑豪さんに登場いただき、realmadHECTIC 側から見た「 1LOVE 」を振り返ってきましたが、後編となる今回は、NIKE の中心人物であった高見薫さんと秋元凜太郎さんにご登場いただき、NIKE 側から見た「 1LOVE 」を振り返っていきたいと思います。

「 1LOVE 」を手がけた東京プロモーションが誕生した理由や NITRO MICROPHONE UNDERGROUND による名曲『 SPECIAL FORCE 』の製作秘話など、当時の関係者しか知らないマル秘エピソードも満載! それでは後編スタート!

NIKE がファッションに舵を切るきっかけと、東京プロモーションの誕生秘話

MIMIC

今年は AIR FORCE I の40周年を記念するアニバーサリーイヤーということで、今なおスニーカーフリークの間で伝説として語り継がれている AIR FORCE I のコンセプトストア「 1LOVE 」について振り返っていきたいと考えています。

 前編に登場いただいた真柄さんや吉﨑さんをはじめ、多くのストリートの才能が集まって進められた画期的なプロジェクトだったと思うのですが、まずは前段として、NIKE が HECTIC をはじめとするストリートブランドに歩み寄ることになるきっかけをお聞かせいただけますでしょうか?

’91年にナイキジャパンに新卒入社して以来、ナイキショップの立ち上げや 1LOVE の立ち上げなど、数々のプロジェクトを担当し、現在はデッカーズジャパンで UGG® を担当する高見薫さん(左)と、同じくナイキジャパンで 1LOVE の立ち上げやストリートブランドのコラボレートなどを担当し、現在は広告代理店である ブーマー に所属しながら、バスケットボールカルチャーマガジン『 FLY 』の編集長も務める秋元凜太郎さん(右)

高見

そもそも私が入社した頃のナイキジャパンは、体育大学や体育学部出身者も多く、ものすごく体育会系の会社だったんです。転機が訪れたのは、’95年に日商岩井 ( 現双日 ) の子会社から本国 Nike, Inc. の100%子会社になったタイミングです。外国人の社員も入社し、ビジネスのやり方も日本スタイルからアメリカスタイルへと変化していきました。

そうしたなかでスタートしたのがナイキショップの立ち上げです。日本ではイマイチ理解されていなかった NIKE のブランドアイデンティティを浸透させるために、NIKE の世界観を表現した NIKE の専門店をつくろうということになったんです

MIMIC

当時、丸井のフィールド館などに入っていたお店ですよね?

高見

そうです。都内ですと、丸井のフィールド館やミナミスポーツなどで展開していました。ですが、その準備を進めている矢先に AIR MAX 95 ( エア マックス 95 ) の大ブームが起こるんです。“AIR MAX 狩り” なんていう言葉が生まれるくらいヒートアップしていたので、当然、NIKE 専門店であるナイキショップへ行けば買えるだろうと考えたお客さんたちが、オープンの1ヶ月前くらいから並ぶ事態に発展してしまい……。入店予定の施設からは「 子どもたちが並んでしまうと困るから、夏休みにオープンしてくださいね 」と言われてしまう始末でした

ネオンイエローのグラデーションカラーと人体に着想を得て製作された未来感のあるデザインで、爆発的な人気を誇った AIR MAX 95。もとを正せば、このブレイクも裏原宿、特に HECTIC の店員さんたちが履いたことから生まれていた( 画像引用:NIKE )

MIMIC

実際にナイキショップで AIR MAX 95 は販売したんですか?

高見

しました

MIMIC

えっ、在庫はあったんですか?

高見

人気商品を含めて、可能な限り在庫はナイキショップに集約しますという戦略の一つとしてお店を展開していたので

MIMIC

当時、世の中に流通していた AIR MAX 95 は、並行輸入で引っ張ってきたものばかりだと思っていたんですが、通常販売していたんですね

高見

もともとは名前のとおり、’95年にリリースされたインラインモデルです。日本で大ヒットしたのは’96年ですから、前年のモデルをつくり直すというかなり異例な出来事となったのですが、「 NIKEを知ってもらういいチャンスだからやってみよう 」という社内の調整が入り、翌年の’96年にも販売されることになったんです

MIMIC

ストリートで NIKE がブレイクするきっかけは AIR MAX 95 がつくったと言っても過言ではないですよね

高見

ええ。それまではアスリートに向けてアプローチをしていましたが、国内では中途半端なイメージでした。それが AIR MAX 95 をきっかけにファッション性の高いスニーカーブランドと認識されるようになっていきました

MIMIC

ということは、AIR MAX 95 のブレイクをきっかけに NIKE はファッション方向に舵を切っていくのですね?

高見

ところが、違うんです。AIR MAX 95 をはじめ、Reebok の INSTAPUMP FURY (インスタポンプ フューリー) や PUMA の DISC BLAZE ( ディスク ブレイズ ) といったハイテクスニーカーの一大ブームが過ぎた’97年になると、その勢いは失速してしまいます。

社内的には、「 ファッションなんて、チャラチャラしたから失敗したんだ 」という反省が行われ、もう一度スポーツの NIKE を取り戻そうという動きが活発になるんです。ファッション誌には、「 今後一切の貸し出しをお断りいたします 」というファックスを一斉送信したくらいですから

MIMIC

お、おん。。。そして’98年の不振につながってしまうわけですね。社内的にそのような反省が行われた逆風の中で、どのようにして裏原やストリートといったファッションシーンとリンクしていくことになるのですか?

高見

とはいえ、「 もう少しファッション方向にアプローチを重ねれば認知は拡大できるんじゃないか 」という声もあったんです。その当時、アメリカでは「 ハリウッド プロモーション 」という新しい部署ができて、ハリウッドのセレブやスターたちにNIKE のスニーカーを履いてもらうプロジェクトが立ち上がったんです。

やはり、ハリウッドは映画のイメージが強かったので、映画に NIKE のスニーカーを登場させれば、多くの人たちの印象に残るだろうということで、『 フォレスト・ガンプ 』や『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』といった映画を活用したプロモーションが始まっていきました

MIMIC

えっ!? あの露出は意図的だったんですね?

高見

そうなんですよ。いきなり「 セレブが NIKE のスニーカーを履いています 」という訴求の仕方だとちょっと違うだろうということで、まずは映画を通じた刷り込みから始めていきました。それがうまくいき始めたので、売上が落ち込んでいる日本でもそういったプロモーションを展開しようとなり「 東京プロモーション 」という部署ができることになるんです

MIMIC

なるほど。東京プロモーションは、ハリウッドの成功事例を参考に立ち上げられたんですね

高見

でも日本で映画というのは、ちょっと違うじゃないですか。そこで「 日本に相応しいプロモーションとは何か? 」を考えるために、一人アサインされることになるんです

MIMIC

それが HECTIC のお二人からもお聞きした坂井さんですか?

高見

そうです。当時はネタ探しのために、昼も夜もひたすら東京の街をウロウロしていました(笑)。人気のカフェに入って、店員さんに「 このスニーカー、どう思う? 」と聞いてみたり、夜の街に繰り出して、誰が人気あるのかを聞いて回ったり。そんな活動をしているうちに( 藤原 )ヒロシさんの存在を知り、彼と組んだらいいんじゃないか、という話に発展していくんです

MIMIC

HECTIC のお二人から聞いた話だと、真柄さんや DJ HASEBE さんのイベントにも顔を出されていたようで、プロモーションの足がかりをつかむために本当にいろいろなスポットをリサーチして回っていたんですね

高見

そうこうしているうちに、今度は東京独自のプロモーションを展開するためにプロダクトが必要になってきます。ハイテクスニーカーのブームの際にあれほど盛り上がった市場なんだから、ポテンシャルはあるはずだと。それで日本限定のプロダクトを販売することになり、裏DUNK が製作されることになります

MIMIC

なるほど。でも当時は、復刻という概念すらなかったような時代ですよね?

高見

はい。当時のアメリカ人に昔のスニーカーを履くという発想は理解されなかったのですが、日本には古着という独自のファッション文化が定着していたので、そういったスタイルにハマるスニーカーを製作しようということで DUNK が採用されました

東京シティアタックという名のもとに発売された裏DUNK。全18型が日本限定発売された ( 画像引用:NIKE )

MIMIC

藤原ヒロシさんが昔から愛用していたスニーカーだから DUNK が選ばれたのかと思っていました

高見

実は古着の文脈から採用されたモデルだったんです。当時は DUNK と AIR PYTHON ( エア パイソン ) の2モデルが候補に挙がっていたようですが、AIR PYTHON はスウッシュがないなどの理由からか外され、最終的に DUNK が選ばれることになったんです

MIMIC

もしも、そのときに AIR PYTHON が選ばれていたら、いまとは違う状況になっていたかもしれませんね。ちなみに DUNK を復刻するにあたっては、過去のアーカイブから製作したのですか?

高見

社内にオリジナルの DUNK は残されていなかったので、大枚をはたいて古着屋さんに展示されていたオリジナルを購入し、それを解体して製作しました。エアの内蔵された AIR FORCE I より、エアの入っていない DUNK の販売価格が高くなってしまったのは、その時に新たに制作した金型代などが乗ってしまったためなんです(笑)

MIMIC

確かにスニーカーはサイズごとにラストやソールの金型をおこす必要があり、費用がかさみますもんね。それにしても DUNK が支持される理由の一つとして豊富なカラーバリエーションがあると思いますが AIR PYTHON だったら実現できていませんよね

高見

結果論かもしれませんが DUNK が選ばれて本当に良かったと思います

MIMIC

インラインは通常カラー、その反転カラーとなる裏DUNK は販路限定という、販売方法もこれまでとは違いますよね

高見

賛否両論あったかもしれませんが、とにかく「 盛り上げないと! 」という気持ちが強かったので、販売方法も新しい挑戦を試みました

MIMIC

その販路に選ばれたのはストリートで人気のあったショップでしたが、NIKE 的にはこの時点ではもうストリートを強く意識していたのですか?

高見

意識していました。しかし「 スポーツの NIKE を取り戻す 」という会社の方針に従っていたナイキショップからは異論の声があがりました。自分たちはスポーツに力を入れているのに、現状はファッションに力を入れてるじゃないかと。そこで特定のモデルに関しては、限定されたお店で先行発売して盛り上げていただき、後発のナイキショップには集客が見込めます、という先行・後行みたいな販売方法を採用していくことになります

MIMIC

そういった販売方法は、日本以外でも行われていたのですか?

高見

いえ、やっていませんでした。当時は発売日も細かく決められておらず、商品が届いた順から販売するのが普通でしたから

MIMIC

ヒロシさんがスケートをする際に DUNK を履いていたということもあり、裏DUNK あたりの動きについては、ヒロシさんとガッツリ組んでいたのかと思っていました

藤原ヒロシさんが愛用したスニーカーを紹介した書籍『 Sneaker Tokyo vol.2 “Hiroshi Fujiwara” 』( マリン企画 )の表紙に使用されたのも DUNK だった

高見

要所要所で相談していたと思いますが、基本的には社内で進めていましたね。結局のところ DUNK というスニーカーは、ストリートでも古着でも両方に愛されたモデルということなんでしょうね

MIMIC

日本の古着文化が復刻という手法を生み出し、それがストリートの人気ショップによって拡散されていくと。そして裏DUNK の成功をきっかけに CO.JP( コンセプト ジャパン )と呼ばれる日本企画のプロダクトがリリースされていきますが、社内的にはどのような変化があったんですか?

高見

「 日本企画をやっていいよ 」というのが大きな変化です。アパレルに関しては気候や体格の違いから日本企画で製作していたのですが、フットウエアについては本国で最高の製品を開発しているんだから、それを売るのが当然という考え方でしたので

遊びにも経費を惜しまない! 語られることのなかった東京プロモーションの裏事情

MIMIC

裏DUNK の頃には原宿の方々との距離も近くなっていますよね。なにかきっかけはあったのですか?

高見

先ほど話にあがった東京プロモーションの坂井に「 東京の街で得られた情報や人脈をビジネスに活かせないか 」という声が集まるようになり、営業部に繋いでいくことが行われ始めます。

MIMIC

この段階では卸先としてですよね?

高見

はい、まずはそうですね

MIMIC

HECTIC チームのお話によると、坂井さんは真柄さんや DJ HASEBE さんに AIR PRESTO ( エア プレスト ) を履いて欲しいとプロモーションしていたようなのですが、遊ぶ中でもキーマンたちに発売前のプロダクトを配るというミッションもあったのですか?

高見

そうですね。当時はカリスマ店員と呼ばれるショップスタッフがたくさんいた時代だったので、そういった人たちにもプロモーション活動を行なっていました。雑誌でも「 人気スタッフのスナップ 」のような企画がよく掲載されていたので、「 彼らに履いてもらえれば、読者のみんなも憧れてくれるのでは? 」といった具合に。その延長として「 そのショップで売ってもらったら良いのでは? 」という話になり、ストリートの人気ショップで NIKE のプロダクトを扱ってもらうようになるんです

MIMIC

当時は、どの辺のショップとお付き合いがありましたか?

高見

HECTIC や atmos、Stussy、AGITO、恵比寿から原宿に来た頃の SWAGGER、bal、女の子には X-girl や MILDFED.、ユニセックスなイメージの HEAD PORTER、それから忘れてはならない SOPH. ですね

MIMIC

この辺のショップやブランドには、インラインの色付けもお願いしていたと思うのですが、それも東京プロモーションからの依頼ですか?

高見

この頃になるとプロダクトの担当者が直接コンタクトを取っていました。当時お付き合いのあったブランドさんには、いろいろなアドバイスをいただきました。みなさん塗り絵のように楽しんでもらったり、途中段階のサンプルを見ていただき意見をもらったり、当時は仕事というより遊びの延長としてお願いしていました

MIMIC

凜太郎さんがナイキジャパンに入社したのは、この辺のタイミングですかね?

秋元

僕がナイキジャパンに入社したのは2001年なんで、これよりちょっと前ですかね。それまでの東京プロモーションは坂井さん一人で、F.C.R.B. とか、ヒロシさんとのモノづくりは始まってましたが、他のブランドとの取り組みは、一緒に開拓したのを覚えています

MIMIC

HTM のプロジェクトは始まっていましたか?

秋元

いえ、まだ ELECTRIC COTTAGE ( =ブランドの方ではなく、ヒロシさんの事務所の名前 ) との取り組みでした

MIMIC

AD21 という直営店がオープンしたのも2001年ですよね

秋元

僕が入社したタイミングではオープンしていました。後に中目黒にできる東京デザインスタジオでディレクターを務めることになるグローバル所属デザイナーのハワードの協力のもと坂井さんが始めたプロジェクトが AD21 です。毎月お店の内装を変えるインスタレーションを実施していました。ちょうど HEC の上、ヒロシさんが所有するビルの1フロアを借りる形でスタートしました

realmadHECTIC が入っていたビルの1階に、’01年〜’05年の間だけオープンしていた AD21( 画像引用・:SUGAR CUBE VINTAGE

高見

この当時は、実験的なプロジェクトが色々と立ち上がったタイミングだったんですよね

MIMIC

世界を見渡しても NIKE が運営する直営店ってレアだったんじゃないですか?

高見

そうですね。NIKE は卸で大きくなった会社だったので、自前の店は必要なくナイキタウンだけで十分、というスタンスでしたからね

MIMIC

凜太郎さんは坂井さんの元で、どのような仕事を担当されていたのですか?

秋元

入社して初めての仕事は、DJ HASEBE さんが地方で DJ するイベントの応援という仕事だったのですが、当時はストリートのキーマンの方たちに少しでも NIKE を好きになってもらおうという活動をしていました

MIMIC

今でいうインフルエンサー・マーケティングのような活動ですか?

秋元

そうです。坂井さんは日本で一番早くインフルエンサーという言葉を使って、ヒロシさんや清永さんといった影響力のある人たちを表現していました

高見

私も NIKE が初めてインフルエンサーという言葉をつくり出したって聞いたことがある

秋元

僕は坂井さんのプレゼン資料で初めて目にしました。坂井さんはカルチャーや流行はボトムアップではなくトップダウンで広がると考えていて、それはヒロシさんや真柄さんといったインフルエンサーから発信されるものだと。

だからこそ、彼らに NIKE を好きになってもらうことがすごく大切で、そのためには僕ら自身が彼らと仲良くなることが重要だと。そのための経費だったら惜しむことなく、好きなだけ遊んでこいって感じだったんですよ

高見

好きなだけって言ってますけど、本当にジャブジャブでしたからね(笑)

秋元

T&E ( Travel 出張旅費 & Entertainment 交際費 ) の予算が国産高級車2台分くらいあったと記憶しています (笑)

MIMIC

マジっすか !? 想像を絶する額でした(笑)

秋元

そういった活動を通して仲良くなった後は、高見さんが在籍していた「 ニュービジネス 」という部署の人たちに橋渡しをして、新しいビジネスを開拓していくんです

MIMIC

一見遊んでいるように見えても、ビジネスに繋げる仕組みがちゃんとあったのですね。遊びがビジネスになっていくのは《あんときのストリート》の特徴だと思いますが、それってあくまで偶発的なもので再現性はありません。でも NIKE はそこにしっかりとしたマーケティングを持ち込み、仕組み化して予算もつけていたと。さすが NIKE ですね

秋元

《あんとき》って仕事のできる人たちがちゃんと遊んでいた時代でしたし、ハーレムのような場所にいってもビジネス界隈の人たちが集まっていましたよね

MIMIC

たしかに。今思うとサロンや社交場のような役割も担っていましたよね

高見

まさにハリウッドプロモーションが活動の場としてきた社交場を東京流に解釈したのが、クラブをはじめとするプレイスポットだったんです

MIMIC

見事に本国の成功事例を東京へ移植しましたね

高見

とはいえ、ある程度の形になるまでに数年の年月はかかってますけどね

秋元

そうですね。その後、上司が久保田さん( 久保田夏彦さん/ナイキジャパンで NIKE .jp や NIKE iD の立ち上げを担当。1LOVE プロジェクトの責任者 )に変わって、東京プロモーションの役割も細分化されていきます。

これまで東京プロモーションがやっていた活動はエナジーマーケティングという部署が担当することになり、そのようなチームがニューヨーク、ロンドン、パリといった主要都市に誕生します

MIMIC

そのチームのミッションは、各都市にいるインフルエンサーと一緒にプロジェクトを始めることですか?

高見

そうです。ストリートを巻き込んで成功した東京の事例を、みんなが真似るようになったんです

秋元

そのあたりから、規模は小さくてもシーンに強い影響力を持つショップやブランドとの取り組みをさらに強化していくことになります。HECTIC をはじめ、AGITO や bal といったお店にもアカウントを開設し、売上よりも盛り上げることを優先させた施策を実施していきました

NIKE が 1LOVE を立ち上げることになった経緯と店名に込められた想い

MIMIC

そういったストリートでの取り組みが 1LOVE というプロジェクトの立ち上げへとつながると思うのですが、社内的にはどういった経緯でスタートすることになったのですか?

秋元

上司が久保田さんに変わってから、会社が掲げる戦略に則った取り組みが増えていきます。そうしたなかで AIR FORCE I が25周年を迎えるにあたり、何かスペシャルな取り組みをしたいという話になりました。正直、25という数字にピンとこなかったのですが、アメリカ人はクォーター単位で期間を捉える習慣があるので、25という数字はとても大事な数字だということを知りました

MIMIC

なるほど!それで20周年でも30周年でもなく、25周年だったのですね

秋元

そうなんです。AIR FORCE I の特別なアニバーサリーイヤーを祝うなら、ファッションシーンに AIR FORCE I が根付くきっかけをつくったヒップホップをはじめとするブラックミュージック・カルチャーとのコラボレーションは欠かせないよねという話になり、真柄さんに白羽の矢が立つことになるんです

MIMIC

たしかに《あんときのストリート》において、音楽とファッションを両立させている人は非常に多いですが、シーンを詳しく知っていればいるほど、その代表格として真柄さんの名前をあげる人は多いでしょうね。

ちなみにアニバーサリーを祝うのであれば色々な手法があると思うのですが、コンセプトショップという形になったのは、どんな理由からですか?

高見

本国からのミッションとして、最初からショップオープンというものがありました。しかも「 秘密基地のような場所 」で開くのが望ましいと。その話を聞いたときに、私は真っ先に AGITO が思い浮かんだのですが、当時はまだオープンしたばかりで、急に AIR FORCE I のお店にリニューアルしてくれと言われても難しいと。

それで考え直すなかで、JUGMART のビルが「 ハックルベリーの家みたいで秘密基地っぽいじゃん! 」と気づき、二人で真柄さんにお願いにいきました

NITRAID のヘッドショップとしてオープンした AGITO。店内や外観もブランドの世界観であるアンダーグラウンド感が満載だった( 画像引用:BROTURES )

秋元

真柄さんは二つ返事で「 すごくいいね! 」と言ってくれました。どうせやるなら世界中のスニーカー好きが日本を目指して訪れるようなショップにしたいよね、という話に広がっていき、当初の予定ではワンフロアだったのですが、ビル全部を使わせてもらうことになったんです

高見

結果として JUGMART を追い出すことになってしまったので( 当時 JUGMART を担当していた )浜ちゃんや熊木くんにはすごい謝りましたね

MIMIC

1LOVE のクリエイティブやプランニングは Wieden+Kennedy Tokyo にいらっしゃった飯田昭雄さん ( BAPE® GALLERY でキュレーターとして活躍した後、Wieden+Kennedy Tokyo で 1LOVE のプロモーションを担当 ) が担当されるんですよね?

秋元

はい。ショップの内装にも携わってもらいました。トラフさんという設計事務所にお願いしたのも飯田くんの提案でした。1LOVE の内装は、その後のナイキ原宿の壁デザインなどにも影響を与えたんじゃないかと思っています

MIMIC

ガラスが多用された内装や NIKE iD STUDIO の併設など、最先端となる House of Innovation にも引き継がれる試みに感じます

NIKE がこれまでにないショッピング体験を提供するために立ち上げた House of Innovation。2022年7月現在、ニューヨーク、上海、パリと世界に3店舗しか存在しない ( 画像引用:NIKE )

秋元

たしかにその後のスタンダードになりましたね。NIKE iD STUDIO の併設とブログの毎日更新は、当時としては画期的だったと思います。それと「 1年しかオープンしないので、年間でリリースされる AIR FORCE I が全て見れる 」というのも斬新だったと思います。あの特徴的なガラスのショーケースが誕生したのも、そのアイデアがあったからですし

1LOVE のアイコンともなった、店内に設置されたガラスのショーケース。オープン時に陳列された200足を超える真っ白い AIR FORCE I  は、ニューモデルがリリースされる度に入れ替わり、徐々に色付けされていくという仕掛けが施された ( 画像引用:TORAFU )

MIMIC

シヨーケースだけで、ポルシェ一台分の費用がかかったと聞きましたが

秋元

そうですね(笑)。かなり大きな什器だったので、搬入するのもかなり大変でした

高見

私はオープン時にショーケースに並べた白い AIR FORCE I の靴紐を通す作業に発狂しそうになった嫌な思い出があります(笑)

MIMIC

併設した NIKE iD STUDIO も、9,000円 ( =当時の AIR FORCE I の定価 ) で1つ押してもらえるスタンプを25個貯めないと利用できないというラグジュアリー仕様でした

秋元

その流れになったのは、ヒロシさん発信で企画された CELUX の NIKE iD STUDIO が支持されたからですよね

高見

そうだね。頑張れば手が届く範囲にあるラグジュアリーさがウケていたんだと思います。自分が真柄さんのようなインフルエンサーじゃなくても、そこに行けば憧れの1足を手に入れられる喜びといいますか

MIMIC

1LOVE というネーミングには、どのような意味が込められていたのですか?

秋元

25周年を祝う AIR FORCE I への愛という意味です

高見

過去のコンセプトショップの運営経験から、お店の名前が難しくて覚えられないというご意見をいただくことが多かったので、このときはシンプルで覚えやすいネーミングにしました。浜崎あゆみさんが同名のタイトルをリリースしていたので、著作権的に問題ないかと不安にはなりましたが(笑)

MIMIC

すぐに決まったんですか?

高見

いえいえ、なかなか決まらなくて……。いろいろな進行が滞ってしまい大変でした(笑)

MIMIC

AKEEM さん ( 西村明彦さん / HECTIC のデザイナー。ヨッピーさんと同じく T19 のライダーとしても活躍し、現在はデザイナーやコーディネーターなど、多方面で活躍中 ) が企画したTシャツのデザインで、スウッシュの向きを変えたら NG になったという話もお聞きしました

秋元

今はトラヴィス・スコットのモデルなど、自由にスウッシュをイジったモデルがありますが、当時は絶対 NG でした

MIMIC

1LOVE という AIR FORCE I 25周年を祝うスペシャルな企画でもダメだったんですね

秋元

無理でしたね。アウトライン・スウッシュすらダメでしたから。その点、今は自由にやらせてくれるようになりましたよね

MIMIC

もし AKEEM さんのデザインが採用されていたら、世界に先駆けた試みだったんですけどね

高見

でも、それがダメだったからこそ、みんなで知恵を絞ったんだと思います。何でもよかったら、簡単に思いついちゃうじゃないですか。制限があるからこそ、その分、クリエイティブが生きるということもあると思いますしね

プロモーションの一つとして製作されたニトロの名曲『SPECIAL FORCE』

MIMIC

次は 1LOVE で実施したプロモーションについてお聞きしたいのですが、レセプションパーティやブログ、シーンを盛り上げるクラブイベントやスポーツイベントなど、さまざまなプロモーションが行われたと思うのですが、2007年にニトロ( NITRO MICROPHONE UNDERGROUND )が『 SPECIAL FORCE 』をリリースします


ニトロらしい卓越したマイクリレーが楽しめる『 SPECIAL FORCE 』。ストリートの永遠の定番として支持される AIR FORCE I 同様、シーンから熱く支持を得た

高見

深見さん( XBS / NITRO MICROPHONE UNDERGROUND のメンバーで、当時は NITRAID のヘッドショップである AGITO を運営 )が大の NIKE 好きで、ご自身で経営されていた AGITO を NIKE のスペシャルアカウントに昇格してほしいという依頼を受けていたのですが、なかなか実現することができず……。

でも、そんなに NIKE のことを好きでいてくれるなら、彼らにしかできないことでその愛を表現してもらえたら良い結果に繋がるのではと思い、AIR FORCE I のアニバーサリーソングをつくってもらうアイデアを思いついたんです。お店は1年で終わっちゃいますけど、曲を聞くことで 1LOVE のことを思い出して、後世にも25周年の取り組みを伝えていけるかもしれないですし

秋元

曲をつくるにあたって、どんなことをやりたいか聞いたら「 Wieden+Kennedy Tokyo と一緒にミュージックビデオをつくりたい 」という要望をいただきました。そこでメンバーの方々に NIKE を身につけていただき撮影しましたね

MIMIC

ヒップホップのアーティストで、ブランドやショップも持っていて、AIR FORCE I 大好きという、これ以上はない人選ですよね。

この 1LOVE での取り組み以前には、2004年のセカンドアルバム『 STRAIGHT FROM THE UNDERGROUND 』のジャケットでスペシャルな DELTA FORCE ( デルタ フォース ) も製作されていましたよね

秋元

そうですね。靴箱をモチーフにしたケースも用意して、かなり力を入れました。でも会社から「 NIKE 以外の製品にスウッシュをつけるな 」と怒られてしまいましたけど(笑)

MIMIC

そうなんですね。靴箱を模したケースを開けたら、DELTA FORCE がジャケットになった CD が出てくるという。かなりイケてるアイデアですよね

スニーカーフリークの間でも好評だった、ニトロのセカンドアルバム『 STRAIGHT FROM THE UNDERGROUND 』( 画像引用:Aucfree )

秋元

発売はされなかったのですが、ニトロのメンバーとはオールリフレクター仕様の AIR FORCE I をサンプルで製作したこともあります

MIMIC

聞いたことがあります。リフレクターという性質上、どうしても製造過程において素材に跡がついてしまうなどB品が多発することにより、製品化は実現しなかったということで。後にそのアイデアが真柄さんや今井さんが手がけていた MADFOOT! の MAD DAAAM I ( マッド ダームワン ) に受け継がれていくことになると

秋元
そうです、そうです

高見

受け継ぐでいうと先日、シューズクリーニング用の歯ブラシがついた AIR FORCE I がリリースされましたよね。あれを見て思い出したのですが、オープンのレセプションの際に 1LOVE のスタッフの1人がホワイトのミッドカットのストラップに自分で用意した歯ブラシを差していたんですよね。

彼は自分なりに昔は歯ブラシで AIR FORCE I をキレイにして履いていたという事実を調べて、得意気に説明していました。偶然だけど、ちゃんと受け継がれているなって (笑)

Color of the Month と銘打たれ 2022年7月にリリーされた AIR FORCE I 。シューズクリーニング用の歯ブラシが付属している。残念ながらローカットのためストラップはないが、シューレースに挟み込んで、1LOVE 流で楽しんでみては?(笑)

関係者のみに配られた 1LOVE のカタログの一部を公開

動画接客ツール ザッピング で投稿

NIKEがもつストーリーへのこだわり

MIMIC

1LOVE を運営していくなかでは大変なこともあったと思うのですが、一番苦労したのはどんなことでしたか?

高見

1年間 AIR FORCE I だけを売るというのは、これまでにない大変な経験でした。2007年頃は市場が落ち込んでいたのも向かい風となりましたね。

他にも苦労したのは、これからリリース予定の商品が掲載されたカタログは、プロダクトが黒塗りされていて、カラーで見ることができないんですよね。それもあって atmos では、多色入りの色鉛筆持参で一日中、展示会場で塗り絵をする担当者を派遣していました。オーダーの〆日が近づくと、原宿ではその用紙を貸して欲しいと大人気で(笑)

MIMIC

なんか、そのガッツが atmos らしいというか(笑)。それにしても1年で内装費用やプロモーション費用まで回収するのは至難の業ですよね

高見

そういった経費を含めたら、赤字だったかもしれませんね(笑)

MIMIC

はたから見ているとナイキ原宿や House of Innovation といった今のナイキ直営店のルーツを 1LOVE に感じてしまう部分があるのですが、お二人から見るとどうですか?

秋元

間違いなく 1LOVE からの流れがあると思っています。「 日本でこんな先進的な取り組みを実施して、成功しました 」という事実は、グローバルにも共有されて評価されていましたし。トラフさんがその後も NIKE と仕事を続けているのは、その証左かもしれませんね

MIMIC

今の NIKE の動きは卸から、直売にシフトしていますよね。テック企業を買収したり、元イーベイの CEO だったジョン・ドナホーを CEO に迎え、デジタル化も進んでいます。この直営化の礎をつくったのは 1LOVE をはじめとする《あんときの東京ストリート》で行われた数々の取り組みにあると思うのですが、その渦中にいたお二人からは当時のスニーカーシーンはどのように見えていたんですか?

秋元

中の人間として強く感じていたのは、世界的な広がりを見せたスニーカーのムーブメントの原点は間違いなく、原宿や渋谷のストリートシーンにあったということですね。じゃなかったら HTM という取り組みも生まれなかったと思います

MIMIC

ストリートのいちショップである realmadHECTIC とグローバル企業の NIKE が手を組んで AIR FORCE I の25周年記念のショップをオープンさせ、別注モデルもリリースしたわけですもんね。今では当たり前のことかもしれませんが、そうした先進的な取り組みを成し遂げられたのは、プロジェクトに関わった皆様のご尽力の賜物だと思いますし、この偉業は紙だけではなく、こうしてネット記事にすることでデジタル上に残しておくべきだと思います

秋元

当時社長を務めていたマーク・パーカーは、来日するたびにメディコム・トイの担当の方と中野のまんだらけに行ったりして、おもちゃを買い集めるようなカルチャー好きだったこともあり、ホワイトダンク展をはじめ、アートやカルチャーに価値を見出してちゃんと投資もしていました。NIKEは、そういうカルチャーを取り込むのが相当早かったですし、本当に懐深い会社なんだと思います。成功するかもわからない取り組みに、数千万もの経費を使わせてくれたんですから(笑)

高見

本当だよね。赤字のショップを一年もやらせてくれたりね(笑)

秋元

今ってコミュニティにすごい価値がある時代じゃないですか。それが SNS で可視化されて、この人はフォロワーが何万人いるからインフルエンサーなんて言われているけど、本当は全然違うと思うんですよね。

《あんとき》のヒロシさんや真柄さんは、自分たちが取り組んでいるカルチャーによってインスパイアされたもっと本質的なコミュニティを持っていたからこそ、僕らはそれに惹かれて、一緒に何かやりたいと思ったんです。それこそが本当の影響力だと思うんですよね。逆にそれがなかったら、海外にまでそのムーブメントが広がることもなかったと思いますし

MIMIC

本当に。《あんときのストリート》って、稀有な才能が東京に結集した奇跡のタイミングだったと痛感します。一方で今のシーンについてお二人は、どのように見ていますか?

高見

今はプレ値がすべてという価値観ですよね。スニーカーブームというよりは、リセールブームに見えています。ロレックスなんかの高級時計にはなかなか手が出せないので、手頃にリセールできるスニーカーが注目されているだけなのかなと。だから、昔のようにプロダクトの背景にあるストーリーを大切にする感覚は薄れていますよね

MIMIC

HECTIC のお二人も mitasneakers の国井さんも NIKE とモノづくりを行うと、必ず「 それってどういうストーリーなの? 」というコンセプトを問われるとおっしゃっていました。ただ売れれば良いのではなく、背景やストーリーを大切にする。この姿勢はグローバルの方針だったのですか?

高見

グローバルの方針です。それはまるで宗教の教義のように大切にされていて「 NIKE の社員は皆、フィリップ・ナイト教の信者で、私はその原宿教祖 」って自分で言ってたくらいですから(笑)。その方針に従わないと社内ではどんな企画も通りませんでした

秋元

本当にストーリーって大切で、「 こういう背景があるプロダクトだから、こういうバックボーンの人たちと一緒にやっているんです 」という筋書きはプロダクトに見えない力を与えてくれるんですよね。NIKE はそこをすごく大事にしてきたからこそ AIR FORCE I のように25年経っても40年経っても色褪せることないプロダクトをつくれているんだと思うんです

高見

本当にそう。ストーリーがイマイチだったり、そのとき流行っているからという理由だけで企画を考えていたら、すぐに忘れ去られてしまうはずです。あれから15年経った今になって 1LOVE を掘り起こそうとしてくれる MIMIC のようなメディアが現れたのは、きっとみんなで紡ぎあげた 1LOVE のストーリーが魅力的だったからに違いないんです

MIMIC

いや、まさに。こんな魅力的なストーリーを風化させるわけにはいきませんし、こういったストーリーを知ることで、プロダクトの魅力=転売価格ではなく、背景にあるストーリーを楽しむ風潮が少しでも広がることを期待します。

本日は素敵な話をお聞かせいただき、本当にありがとうございました!

前編の【 HECTIC 編 】はこちらから

AIR FORCE I 40周年記念!NIKEとHECTICによる伝説のプロジェクト「 1LOVE 」を掘り起こせ!【 HECTIC 編 】

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